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今だから考えたい、一人ひとりが担う公共 ~スーパーの牛乳から「公益性」を考える

伊藤伸構想日本総括ディレクター/デジタル庁参与
公共分野の考え方(筆者作成)

「公益」とは何か

行政や政治の世界ではたびたび「公益」という言葉が使われる。これは「公(おおやけ)の利益」という意味だ。ただし、その意味については、行政・政治に関わる人の中でも共有できていないと感じる。「知ったふり」になっている人も多いのではないか。

「公益」には定義がある。「社会一般の利益」、「公共の利益」といわれる。「公=社会一般、公共」ということになるが、これだけでは抽象的でわかりにくい。言い換えると「不特定多数の者の利益」。では、「不特定多数」とはどのような状態か? それは、「誰にでも開かれている状態」だ。簡単にいえば、公とは「みんな」である。この点が「公益」の重要な要素となる(公益性は、「あるかないか」ではなく「高い、低い」というように、中間がある)。

筆者は地方自治体や議会で講演などをする際、必ず公益性について冒頭に話すのだが、これらを説明したうえで、以下の例題を出している。

「300人の難病患者の支援」と「100万人が所属する○○大学の同窓会の支援」のどちらが公益性が高いか?

答えは前者だが、講演や研修の際に挙手を求めると、1~2割くらいの人は後者に手を挙げる。その理由は、たいてい「300人よりも100万人のほうがみんなに近い」というものだ。

たしかに数は、後者のほうが圧倒的に多い。この後、10年経てば、その大学の同窓会は200万、300万人になるかもしれない。しかし、絶対に「みんな」にはならない。どれだけ増えようとも、当然ながらその大学に入学しなければ同窓会に入ることはできないので支援の対象者にはならない。つまり、大学の同窓会は、不特定ではなく「特定多数」となる。

比べて前者は、確かに数は限られているかもしれないし、例えば同じ場所にいる50人の中に難病を持っている人は、もしかしたら一人もいないかもしれない。しかし、50人の中に、「これから死ぬまでの間、100%難病には罹らない」と確約できる人は一人もいない。誰しもが罹る可能性を持っているのだ。公益性を考えるときには、顕在化した数ではなく、潜在的になる可能性があるかどうか(誰にでも開かれているかどうか)が重要となる。

以上は「公益」の「公」の話である。では、「益」とは何か?

辞書では「利益、もうけ」とある。どのようなときに「利益」を得たか考えてみると、「お金をもらったとき」「得をしたとき」などが一般的ではないか。行政的な言葉にすると「モノ・カネ・サービス」ということになろう。

しかし、「モノ・カネ・サービス」だけが利益なのだろうか。「得をしたとき」とはどのようなときかを掘り下げて考えてみると、お金やモノをもらった時に限らず、例えばボランティアなどをして相手に感謝されたときにも得をしたと感じる人がいるのではないだろうか。つまり、「益」とは何かを得ることだけでなく、誰かのためになること、満足度が高まることも利益といえる。ちなみに、辞書には「益」の意味がもう一つ、「役に立つこと、ためになること」とある。

「公」と「官」のはざま

行政の事業は、税金を使って行う。だからこそ行政の事業は、公益性は低いよりは高いほうがよい。この点がすべてではないが、事業実施の重要な判断基準としなければいけない。

例えば、65歳以上の高齢者に対して、健康教室や生涯学習に関する事業など様々なことに税金を投入している。65歳以上の高齢者は全人口の約28.4%(2019年度)と、全国民ではない。しかし、誰もが65歳を迎える可能性を持っている。だからこそ高齢者に対して行政が行うことは公益性が高いといえるのだ。

では、反対に、公益性が高い事業(みんなのためになること)は、すべて行政がやることなのか?

図をご覧いただきたい。公共分野の考え方を概念図で示したものだ。

公共分野の考え方の概念図(筆者作成)
公共分野の考え方の概念図(筆者作成)

図の左側は、事業内容「公(みんなのこと)」と担い手「官(行政)」が同じ大きさになっている。つまり、「みんなのことはすべて行政が行う」という考え方になっている。

しかし、 地域に関わったことのある多くの人は、図の右側のように感じるのではないだろうか。例えば、公共交通や子ども会のお世話など、みんなのことであっても行政だけでなく、個人、地域、NPO、民間企業など「民」が担っていることもあるだろう、と。さらに、官か民かのどちらかだけではなく、官と民が一緒に行うことも増えている。

多くの自治体で仕事をしている実感として、全体として考えると、行政も市民も図の上段のような考え方になっていると思う。

まず行政。行政は多くの計画を作っている。何のために作るかといえば当然市民のためだ。しかし、計画を作るプロセスに多くの市民が加わることを好意的に捉えない人もいる。行政の中で作るならある程度落としどころもわかるしまとめやすいが、市民が入ることによって行政の考えと大きく変わってしまうおそれがあるからだ。この考え方では、「市民のための計画作り(=みんなのこと)は行政だけで行うほうがよい」に行き着いてしまう。

次に市民。ある市の事例だが、市民から市役所に「防犯灯(安心安全を目的に住宅街などに設置する街灯)の球が切れているので交換してほしい」との電話が入った。この市では、防犯灯の球の交換などの維持管理は自治会が行っていたので、市の担当者はその旨を伝えたうえで、電話の相手がその自治会の地域に住んでいることがわかったこともあり、自治会長に連絡してほしいと告げたが、先方は「それは職員が行うことだ」と反論。何度か問答をしてその時の電話は終わった。

翌日。19時過ぎに同じ人物から市役所に電話があった。なぜ19時過ぎだったかというと季節が夏で、防犯灯の自動点灯が19時だったためだろう。「交換されてないじゃないか」という電話相手に対し担当者(残業で残っていた)は、昨日言ったことを繰り返す。ただし担当者は何もしていなかったわけではなく、午前中に自治会長に電話をしたが不在でつながらなかった。そのことも伝えたのだが、電話の相手は次第に感情的になり、「だから公務員は仕事が遅いと言われるんだ」とクレーマーのような言い方になってしまった。

市の担当者は、防犯灯の維持管理という「みんなのこと」を自治会に依頼しているという意識でいるが、電話をしてきた市民は、それは行政が行うことだと考えていた。このように、行政の側も市民の側も「公(みんなのこと)=官(行政)」という意識があるのではないだろうか。

それを象徴する言葉が「公民連携」だ。この言葉は多くの自治体で使われている。行政と民間が連携して取り組んでいこうという意味で使われるが、それならば「官民連携」といわなければいけないはずだ。言葉の揚げ足取りではなく、「公=官」という考え方が蔓延していることの証明ではないだろうか。

「みんなのこと」は「自分たちのこと」

図に示されている言葉を英語にしてみるとさらにわかりやすくなる。

「公(おおやけ)」はpublic。公の対義語はその右の「私」=private。「官」はgovernment。右下に位置する「民」は、ここでは大衆、公衆の意味になるが、それらは「public (general public)」と訳される。

つまり、「公」と「民」は同じ意味なのだ。「みんなのことは行政だけが担うものではない」と述べてきたが、そもそも「みんなのことは自分たちのことそのもの」なのである。自分たちのことの中にできないことがあるので、行政という存在を民が作って、自分たちの代わりにさせているのだ。

ちなみに、市民にはいくつかの側面がある。自分たちの代わりに行政にさせるのは、「主権者市民」であり、市民は行政よりも上に位置する。主権者市民が持っている権限の大きな一つは選挙。選挙によって首長、議員を選ぶ。また、議会や首長を辞めさせることができる(解職請求権)。さらに、市民が条例を提案することもできる(後者二つは国との一番大きな違いでもある)。そのほかに、NPOや企業、町内会、ボランティア団体など事業主体たる「事業者市民」。この場合、行政とは対等(パートナーシップ)である。さらに、行政や事業者市民が提供しているサービスを受益する「受益者市民」。市民は様々な行政サービスを受益しているが、この受益者市民のみをもって「市民」ととらえてしまう傾向にあるように感じる。

パブリックの「自分ごと化」とは

「みんなのことは自分たちのことそのもの」であるのに、他人ごとになっているのではないだろうか。この「パブリックの『他人ごと化』」は、生活の様々な面に出ているように思う。

例えばスーパーで牛乳を買うときに、時々陳列棚の奥のほうから取っていく人がいる。賞味期限が少しだけ先だからだ。しかし、自分の家の冷蔵庫であれば賞味期限の近いほうから飲むだろう。結局、スーパーで全員が奥のほうから取ってしまうと前列の牛乳はいずれ廃棄されてしまう(実際にされている)。

スーパーというパブリックな空間にある牛乳は自分のものではないから、無駄になるかどうかよりは少し新鮮かもしれない牛乳を取る。レジでお金を払うとまさに自分のものになるので無駄にしようとは思わない。

スーパーの牛乳のような身近なことを自分ごとにしていく先に、自分の地域、住んでいるまち、社会全体の「自分ごと化」が進むのではないかと思う。

行政にも必要な発想の転換

現在、多くの自治体が、図の左ではなく右の考え方にしようと進めている。大部分の自治体が人口減に伴って税収も減少し、職員数も減らしているからだ。すると、これまでと同じような事業の執行ができなくなるため、いかにして行政が行ってきたことを地域やNPOなどにお願いをするか、という論理になる。しかし、これは考え方の出発点が反対ではないか。

そもそも、いま行政が行っていることは公益性が高いのか(みんなのためになることか)を考え、そうであったとしても、本当に行政にしかできないことなのかを考えていく必要がある。

まず、自分でできることは自分で行い、できないことは地域や集団で行う、それでもできないことを、税金を使って行政が行う。これが「自助、共助、公助」の考え方である。

しかし、多くの自治体では、まず公助があり、公助でできなくなってきたことを共助や自助にお願いをする、という発想になっている。だから出発点が逆なのである。この発想で進めると、行政はこれまで行ってきたとおりのことをNPOや地域にお願いしようとする。そのほうが管理をしやすい。しかしその結果、NPOなどが行政の下請けになってしまうし、そうなれば目指していた市民活動が制約され、市民の利益につながらない結果となってしまう。

「行政が住民を巻き込む」から「行政が住民にどう巻き込まれるか」への発想の転換が迫られている。これこそが市民が政治や行政、社会を自分ごと化することにつながっていく。

「時の法令」2020年1月15日号(第2089号)より転載(一部修正、写真は追加)

構想日本総括ディレクター/デジタル庁参与

1978年北海道生まれ。同志社大学法学部卒。国会議員秘書を経て、05年4月より構想日本政策スタッフ。08年7月より政策担当ディレクター。09年10月、内閣府行政刷新会議事務局参事官(任期付の常勤国家公務員)。行政刷新会議事務局のとりまとめや行政改革全般、事業仕分けのコーディネーター等を担当。13年2月、内閣府を退職し構想日本に帰任(総括ディレクター)。2020年10月から内閣府政策参与。2021年9月までは河野太郎大臣のサポート役として、ワクチン接種、規制改革、行政改革を担当。2022年10月からデジタル庁参与となり、再び河野太郎大臣のサポート役に就任。法政大学大学院非常勤講師兼務。

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