「あおもり歴史トリビア」第683号(令和7年12月19日配信)
2025/12/19 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第683号(令和7年12月19日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
今年は青森県内のクマ出没情報が例年より多く伝えられています。青森県のホームページによると、1月1日~12月14日のクマの出没件数は2,895件で、昨年より2,189件多いといいます。
さて、江戸時代、とくに第5代将軍徳川綱吉政権下における生類憐み政策の時代、弘前藩領では「元禄飢饉」として知られる元禄8年(1695)から翌年にかけて、クマによる領民の人身被害が多く報告されています。とくに、元禄9年の駒籠山では周辺の10を超える村(いずれも現青森市内)にクマ被害による深刻な影響が出ています。
弘前藩領では「熊を獲る者のほとんどは猟師(マタギ―工藤注)であった」といわれていますが(村上一馬「弘前藩の猟師と熊狩り」)、この両年のケースでは基本的に藩庁から足軽が鉄炮打として派遣されていました。一方、クマが村里に出没した場合、村人はクマを打ち殺すことはできません。ではどうすればいいかといえば「大勢ニ而追払」と藩庁は指示しています(「国日記」元禄8年7月11日条)。ですから、領民がクマを殺すと処罰の対象になったのです。
たとえば、元禄5年には石田坂村(現五所川原市)の庄屋がクマを殺し、藩庁から「村預」の処分を受けました。また、人を襲う動物はクマだけではありません。
宝永元年(1704)7月2日、油川組新田村(現青森市)の百姓弥三郎の孫まつ(19歳)が、農作業中にオスのオオカミに襲われました。この時まつは持っていた熊手でオオカミを殴り、オオカミは「左之目玉ぬけ出申候」(「国日記」宝永元年7月9日条)となり、その後死亡しました。この頃、周辺の村でもオオカミの人身被害が出ていて、男性がふたり亡くなっていました。まつのケースも熊手で応戦できなければ命を落としていただろうとみられています。そして、まつもやはり「村預」の処分を翌年1月まで受けることになりました。
領民によるクマ・オオカミ殺しは、一定期間の「村預」となったようです。
さらに、元禄4年7月末には石田坂村・戸沢村(ともに現五所川原市)の人々によるクマ殺しの報が藩庁にもたらされました。領民によるクマ殺しは「村預」が基本で、このケースでも適用されます。しかし、加えて「肉を食べた」ことが発覚し、幕府に報告となりました。そして約1月半後に処分が決定となります。
主犯格の人物は新島へ流罪、家族は津軽領外へ追放、その他2人は津軽領外へ追放、家族は村からの追放となりました。流罪になった人物は一旦江戸へ護送されることになりますが、その費用は村の領民たちの負担でした。罪が許されたのは約19年後の宝永7年1月―徳川綱吉の没後1年のことでした。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
今年は青森県内のクマ出没情報が例年より多く伝えられています。青森県のホームページによると、1月1日~12月14日のクマの出没件数は2,895件で、昨年より2,189件多いといいます。
さて、江戸時代、とくに第5代将軍徳川綱吉政権下における生類憐み政策の時代、弘前藩領では「元禄飢饉」として知られる元禄8年(1695)から翌年にかけて、クマによる領民の人身被害が多く報告されています。とくに、元禄9年の駒籠山では周辺の10を超える村(いずれも現青森市内)にクマ被害による深刻な影響が出ています。
弘前藩領では「熊を獲る者のほとんどは猟師(マタギ―工藤注)であった」といわれていますが(村上一馬「弘前藩の猟師と熊狩り」)、この両年のケースでは基本的に藩庁から足軽が鉄炮打として派遣されていました。一方、クマが村里に出没した場合、村人はクマを打ち殺すことはできません。ではどうすればいいかといえば「大勢ニ而追払」と藩庁は指示しています(「国日記」元禄8年7月11日条)。ですから、領民がクマを殺すと処罰の対象になったのです。
たとえば、元禄5年には石田坂村(現五所川原市)の庄屋がクマを殺し、藩庁から「村預」の処分を受けました。また、人を襲う動物はクマだけではありません。
宝永元年(1704)7月2日、油川組新田村(現青森市)の百姓弥三郎の孫まつ(19歳)が、農作業中にオスのオオカミに襲われました。この時まつは持っていた熊手でオオカミを殴り、オオカミは「左之目玉ぬけ出申候」(「国日記」宝永元年7月9日条)となり、その後死亡しました。この頃、周辺の村でもオオカミの人身被害が出ていて、男性がふたり亡くなっていました。まつのケースも熊手で応戦できなければ命を落としていただろうとみられています。そして、まつもやはり「村預」の処分を翌年1月まで受けることになりました。
領民によるクマ・オオカミ殺しは、一定期間の「村預」となったようです。
さらに、元禄4年7月末には石田坂村・戸沢村(ともに現五所川原市)の人々によるクマ殺しの報が藩庁にもたらされました。領民によるクマ殺しは「村預」が基本で、このケースでも適用されます。しかし、加えて「肉を食べた」ことが発覚し、幕府に報告となりました。そして約1月半後に処分が決定となります。
主犯格の人物は新島へ流罪、家族は津軽領外へ追放、その他2人は津軽領外へ追放、家族は村からの追放となりました。流罪になった人物は一旦江戸へ護送されることになりますが、その費用は村の領民たちの負担でした。罪が許されたのは約19年後の宝永7年1月―徳川綱吉の没後1年のことでした。
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