「あおもり歴史トリビア」第651号(令和7年5月9日配信)
2025/05/09 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第651号(令和7年5月9日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
前回(5月2日)配信に引続き、「万太郎堰」の開さくに関わったとみられる「万太郎」という人物について考察します。
郷土史研究家の肴倉弥八は昭和28年(1953)発刊の著書『青森市町内盛衰記』(以下『盛衰記』)で、この万太郎の姓は「浅利」であるとし、沖館村の庄屋を勤めていたと記しています。肴倉がこのように人物比定をした手掛かりを、私は彼が手掛けた昭和33年発刊の『青森市史』第4巻産業編(上)のなかにあるとみています。
同書の第8章には「青森俵物問屋」が掲げられ、そのなかに長崎市立博物館が所蔵する天明4年(1784)に書かれた史料が翻刻されています(『新青森市史』資料編3にも収録)。それに古川・沖館・新井田の「俵物下請」の商人「沖館住居浅利屋万太郎」という人物がいて、「沖館村庄屋相勤居」とありました。肴倉はこの人物を万太郎堰の「万太郎」と結びつけたと見立てています。
しかし、浅利屋万太郎と「堰の開さく」との関係性は見出せず、「万太郎」という名前が一致しているだけに過ぎません。しかも、「浅利屋」は屋号であって、姓が「浅利」であるとは必ずしもいえません。さらに浅利屋万太郎は18世紀末の人物なので、肴倉が指摘する「大阪落城の落人」という経歴とも合いません。「大阪落城の落人」の子孫であれば一応は理解可能にはなりますが、そもそも万太郎=浅利屋万太郎とすること自体に客観性・合理性がないので、こうした解釈はさほど意味がないでしょう。
ただ、ひとつだけいえることは、昭和28年時点で「万太郎堰」という呼び名が一般に通用していたということです。だから、肴倉は「浅利屋万太郎」に反応したのでしょう。
さらに『盛衰記』によれば、浅利万太郎の子孫に浅利要左衛門という名の子孫がいて、彼は沖館村から移住して「新田派成立に要する灌漑用水」を得るための堰を開さくしたといいます。「派(はだち)」とは新田開発のことをいい、津軽領内では17世紀末までに急ピッチで行われ、18世紀に入ると頭打ちになりました(長谷川成一『弘前藩』)。そして、地名辞典によれば、新田村は17世紀中頃には成立しています。
これらしたがうと、要左衛門は17世紀の人物の可能性が高くなり、その先祖であるという「万太郎」は18世紀末の商人・浅利屋万太郎とは別人とならざるを得ません。
したがって、万太郎堰の「万太郎」を沖館村の庄屋であった「浅利屋万太郎」と認めるには、さらなる史料的な裏付けが必要でしょう。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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郷土史研究家の肴倉弥八は昭和28年(1953)発刊の著書『青森市町内盛衰記』(以下『盛衰記』)で、この万太郎の姓は「浅利」であるとし、沖館村の庄屋を勤めていたと記しています。肴倉がこのように人物比定をした手掛かりを、私は彼が手掛けた昭和33年発刊の『青森市史』第4巻産業編(上)のなかにあるとみています。
同書の第8章には「青森俵物問屋」が掲げられ、そのなかに長崎市立博物館が所蔵する天明4年(1784)に書かれた史料が翻刻されています(『新青森市史』資料編3にも収録)。それに古川・沖館・新井田の「俵物下請」の商人「沖館住居浅利屋万太郎」という人物がいて、「沖館村庄屋相勤居」とありました。肴倉はこの人物を万太郎堰の「万太郎」と結びつけたと見立てています。
しかし、浅利屋万太郎と「堰の開さく」との関係性は見出せず、「万太郎」という名前が一致しているだけに過ぎません。しかも、「浅利屋」は屋号であって、姓が「浅利」であるとは必ずしもいえません。さらに浅利屋万太郎は18世紀末の人物なので、肴倉が指摘する「大阪落城の落人」という経歴とも合いません。「大阪落城の落人」の子孫であれば一応は理解可能にはなりますが、そもそも万太郎=浅利屋万太郎とすること自体に客観性・合理性がないので、こうした解釈はさほど意味がないでしょう。
ただ、ひとつだけいえることは、昭和28年時点で「万太郎堰」という呼び名が一般に通用していたということです。だから、肴倉は「浅利屋万太郎」に反応したのでしょう。
さらに『盛衰記』によれば、浅利万太郎の子孫に浅利要左衛門という名の子孫がいて、彼は沖館村から移住して「新田派成立に要する灌漑用水」を得るための堰を開さくしたといいます。「派(はだち)」とは新田開発のことをいい、津軽領内では17世紀末までに急ピッチで行われ、18世紀に入ると頭打ちになりました(長谷川成一『弘前藩』)。そして、地名辞典によれば、新田村は17世紀中頃には成立しています。
これらしたがうと、要左衛門は17世紀の人物の可能性が高くなり、その先祖であるという「万太郎」は18世紀末の商人・浅利屋万太郎とは別人とならざるを得ません。
したがって、万太郎堰の「万太郎」を沖館村の庄屋であった「浅利屋万太郎」と認めるには、さらなる史料的な裏付けが必要でしょう。
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