「あおもり歴史トリビア」第545号(令和5年3月10日配信)
2023/03/10 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第545号(令和5年3月10日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは! 室長の工藤です。
今回のメールマガジンで何を書こうかと『新青森市史』資料編4近世(2)を開いてみたところ、とても興味深い記録をみつけました。史料名は「青森寄合勤書三」というもので、弘前から青森町に派遣される役人の服務規程などが記されています。
そこにこんな記事がありました。
寛延元年(1748)年2月20日午前8時頃、青森町奉行森山弥七郎が急死したとのこと。彼はもともと「疝気(具体的には胸の痛み)」の持病があり、医者の南宗庵などの治療を受けていたようです。
前夜から青森町は雨と雪が降った上、風も強く寒かったといいます。とくに大風への警戒からか、20日の朝は青森町にあるすべての役所に役人が詰めていたのですが、そこに森山の姿はありませんでした。そこで午前6時頃、青森在番の小山五左衛門が家来に森山のようすをみに行かせたところ、彼が重篤な状態にあったことが判明したのです。
ちなみに、小山内はこの日弘前藩庁に2通の手紙を送っています。1通目はまだ森山が息を引き取る前、すなわち「至極大病」である状態の時で彼の後任を早急に派遣して欲しいと要請しています。そして2通目では、森山の死亡とその後の措置について報告しています。
ところで、ここにいう森山弥七郎とは、青森の町づくりで活躍したということで知られる人物(以下、彼を初代弥七郎と表記)ではありません。初代弥七郎は寛文6年(1666)2月に亡くなっているので、死後80年以上経過しているのです。
私は森山家の系図について2年前に整理したことがあって(拙稿「「『青森開港の恩人』森山弥七郎」の人物像を考え直す」『弘前大学国史研究』151号)、これに則っていいますと、初代弥七郎の長男と思しき人物が森山弥七郎を名乗り、寛文4年(1664)10月末頃から弘前藩庁の文書に登場するようになります。
ですから、ここでの森山弥七郎は初代弥七郎の孫世代ではないかと考えます。
そうすると、少なくとも3代にわたって森山家では「弥七郎」を名乗っていることが判明します。油川・浄満寺にある森山弥七郎供養碑に「元祖森山弥七郎」と刻まれている意味が分かってきますね。
なお、ここでの森山弥七郎の遺骸を引き取った人物は息子の「治四郎」です。彼、もしくは彼の兄弟がこの後「弥七郎」を名乗ることになったか否か、今のところ分かりません。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
登録の変更や利用停止の手続は、次の画面からどうぞ。
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http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
○携帯サイト「青森市mini」
http://www.city.aomori.aomori.jp/koho-kocho/keitai-mini/top/mailmagazine.html
-編集・発行---------
企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
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寛延元年(1748)年2月20日午前8時頃、青森町奉行森山弥七郎が急死したとのこと。彼はもともと「疝気(具体的には胸の痛み)」の持病があり、医者の南宗庵などの治療を受けていたようです。
前夜から青森町は雨と雪が降った上、風も強く寒かったといいます。とくに大風への警戒からか、20日の朝は青森町にあるすべての役所に役人が詰めていたのですが、そこに森山の姿はありませんでした。そこで午前6時頃、青森在番の小山五左衛門が家来に森山のようすをみに行かせたところ、彼が重篤な状態にあったことが判明したのです。
ちなみに、小山内はこの日弘前藩庁に2通の手紙を送っています。1通目はまだ森山が息を引き取る前、すなわち「至極大病」である状態の時で彼の後任を早急に派遣して欲しいと要請しています。そして2通目では、森山の死亡とその後の措置について報告しています。
ところで、ここにいう森山弥七郎とは、青森の町づくりで活躍したということで知られる人物(以下、彼を初代弥七郎と表記)ではありません。初代弥七郎は寛文6年(1666)2月に亡くなっているので、死後80年以上経過しているのです。
私は森山家の系図について2年前に整理したことがあって(拙稿「「『青森開港の恩人』森山弥七郎」の人物像を考え直す」『弘前大学国史研究』151号)、これに則っていいますと、初代弥七郎の長男と思しき人物が森山弥七郎を名乗り、寛文4年(1664)10月末頃から弘前藩庁の文書に登場するようになります。
ですから、ここでの森山弥七郎は初代弥七郎の孫世代ではないかと考えます。
そうすると、少なくとも3代にわたって森山家では「弥七郎」を名乗っていることが判明します。油川・浄満寺にある森山弥七郎供養碑に「元祖森山弥七郎」と刻まれている意味が分かってきますね。
なお、ここでの森山弥七郎の遺骸を引き取った人物は息子の「治四郎」です。彼、もしくは彼の兄弟がこの後「弥七郎」を名乗ることになったか否か、今のところ分かりません。
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