「あおもり歴史トリビア」第558号(令和5年6月16日配信)
2023/06/16 (Fri) 13:00
「あおもり歴史トリビア」第558号(令和5年6月16日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは! 室長の工藤です。
青森市民図書館歴史資料室がある青森駅前の「アウガ」の住所は「新町1丁目」です。この「新町」という地名は藩政時代からあって、「弘前藩庁日記(御国日記)」の寛文12年(1672)6月8日条の「一、青森町ニて百姓引跡新町ニて六度市立候事、」という一節にみえる「新町」が史料上の用例としては最も古いもののひとつといえます。もっとも、現在の新町1丁目は藩政時代の新町からは外れているのですが…。
また、この記事の少し前に描かれたと私が考えている「青森之図(青森御町絵図)」(『新青森市史』資料編3付図)によれば、新町は「百生町」と記されています。つまり、寛文12年の少し前の新町は「百生(姓)町」と呼ばれ、農耕を生業とする人々が暮らしていました。そこから百姓が引き退き町場(=新町)が形づくられ、ここに1か月に6回開催される市(六度市)が立つことになったのが、寛文12年6月のことでした。
さらに、現在の新町通りと善知鳥神社の東側を南北に走る道路の交差点付近に「市神」が祀られました。市神とは市が立つ場所に祀られその場所を守るとともに、幸運をもたらす神であるといいます。この市神が祀られたのは寛文3年とする記録があります。ただ、新町の市立が寛文12年だとすれば、この年代は検討の余地がありそうです。
藩政時代の青森町はしばしば「商人の町」「町人の町」と称され、町立て以来都市的な発展を遂げてきたといいます。たしかに、町づくりの当初、「農業に従事しない人」の移住が促されています。ですから、青森町の基本的な姿は「商人・町人の町」であることに間違いはないと思います。
ところが、時期は降って天保8年(1837)の記録に「新町農人」、すなわち新町に農業従事者がいて、それが新町を象徴する職業であるかのように記されていました(『新青森市史』資料編4 No.42)。これを書いたのは、青森町の米問屋ではないかとみられます。
また、慶応3年(1867)の青森町年寄による記録によれば(『新青森市史』資料編4 No.37)、青森町には農業を生業とする家が125軒あるといいます。すべてではないにしても、「新町農人」を裏付ける数字にはなるでしょう。さらに、この記録には漁師が206軒あるといいます。さきの天保8年の記録には「安方町・蜆貝町之儀者肴物売買漁師共」とあり、安方町は善知鳥宮(現善知鳥神社)を挟んで新町の北側にあります。
つまり、藩政時代の青森町は「商人・町人の町」である一方、町の東部には農業・漁業を生業とする人々が暮らしているゾーンがあったのです。そして、このふたつの境目に「市神」が祀られているのです。
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青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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また、この記事の少し前に描かれたと私が考えている「青森之図(青森御町絵図)」(『新青森市史』資料編3付図)によれば、新町は「百生町」と記されています。つまり、寛文12年の少し前の新町は「百生(姓)町」と呼ばれ、農耕を生業とする人々が暮らしていました。そこから百姓が引き退き町場(=新町)が形づくられ、ここに1か月に6回開催される市(六度市)が立つことになったのが、寛文12年6月のことでした。
さらに、現在の新町通りと善知鳥神社の東側を南北に走る道路の交差点付近に「市神」が祀られました。市神とは市が立つ場所に祀られその場所を守るとともに、幸運をもたらす神であるといいます。この市神が祀られたのは寛文3年とする記録があります。ただ、新町の市立が寛文12年だとすれば、この年代は検討の余地がありそうです。
藩政時代の青森町はしばしば「商人の町」「町人の町」と称され、町立て以来都市的な発展を遂げてきたといいます。たしかに、町づくりの当初、「農業に従事しない人」の移住が促されています。ですから、青森町の基本的な姿は「商人・町人の町」であることに間違いはないと思います。
ところが、時期は降って天保8年(1837)の記録に「新町農人」、すなわち新町に農業従事者がいて、それが新町を象徴する職業であるかのように記されていました(『新青森市史』資料編4 No.42)。これを書いたのは、青森町の米問屋ではないかとみられます。
また、慶応3年(1867)の青森町年寄による記録によれば(『新青森市史』資料編4 No.37)、青森町には農業を生業とする家が125軒あるといいます。すべてではないにしても、「新町農人」を裏付ける数字にはなるでしょう。さらに、この記録には漁師が206軒あるといいます。さきの天保8年の記録には「安方町・蜆貝町之儀者肴物売買漁師共」とあり、安方町は善知鳥宮(現善知鳥神社)を挟んで新町の北側にあります。
つまり、藩政時代の青森町は「商人・町人の町」である一方、町の東部には農業・漁業を生業とする人々が暮らしているゾーンがあったのです。そして、このふたつの境目に「市神」が祀られているのです。
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