「あおもり歴史トリビア」第559号(令和5年6月23日配信)
2023/06/23 (Fri) 13:00
「あおもり歴史トリビア」第559号(令和5年6月23日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは。歴史資料室の福田です。
今年生誕120年を迎える棟方志功は、1955年サンパウロ、1956年ヴェネチアのビエンナーレで連続グランプリを受賞して世界的評価を得ることになりますが、そこに至るまで、またその後の芸術活動を支えたのは、実業家、宗教家、文学者など多くの人々との絆でした。今回は、そういった人たちのひとり、棟方への支援を惜しまず、終生変わらぬ友情を持ち続けたベアテ・シロタ・ゴードン(1923-2012)について書いてみたいと思います。
ベアテについては、終戦後GHQ民生局員として日本国憲法草案に携わり、女性の権利について明記することに尽力した人物としてご存じの方が多いかもしれません。ウクライナ出身のユダヤ人を両親に持つベアテは、オーストリア・ウィーンで生まれ育ちますが、高名なピアニストであった父レオ・シロタが山田耕筰の招きで東京音楽学校(現東京藝術大学音楽部)教授として赴任することに伴い、1929年に来日し、その後1939年にサンフランシスコのカレッジに入学するまでの約10年間を日本で過ごしました。日本語と日本人気質に通じていた彼女は、アメリカ軍事情報部、タイムズ社勤務を経てGHQの要員として再来日し、憲法草案の仕事を任命されることになるのです。
新憲法草案完成を見届けてアメリカに戻ったベアテは、1958年、日本の優れた芸術文化を紹介するジャパンソサエティー・パフォーミングアーツ部門初代ディレクターに就任し、1959年ロックフェラー財団の招きで渡米した棟方を迎えます。ベアテは現地での個展や講演旅行に同行して通訳を務めるほか日常生活全般の世話をして支え、棟方も生活に困窮したソサエティー所属の学生芸術家のために板画を刷って資金協力をし、信頼関係を深めていきました。ベアテは率直で飾らない棟方の気性に好感を持ち、棟方もまた誠実なベアテに心から感謝をしていたようです。1975年5月、来日したベアテが病床の棟方を見舞うと、無理に起き上がり入院中に書いたという1枚の絵をベアテに贈ったそうです。同年9月に棟方は亡くなり、それが永遠の別れとなりました。
1993年にソサエティーを退職後、ベアテは日本各地を巡り、2003年には青森県立大学で(『活彩!保健大学だより』2003年)、2008年には青森中央学院大学を訪れ(『紀要』2008年)憲法と女性の権利について講演会を開いています。棟方の故郷青森を訪れたベアテは、在りし日を偲び感慨深かったのではないでしょうか。
この文章を書くにあたっては、本文であげたもののほかベアテ・シロタ・ゴードン『1945年のクリスマス 日本国憲法に男女平等を書いた女性の自伝』(柏書房 1995年)などを参考にしました。
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TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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今年生誕120年を迎える棟方志功は、1955年サンパウロ、1956年ヴェネチアのビエンナーレで連続グランプリを受賞して世界的評価を得ることになりますが、そこに至るまで、またその後の芸術活動を支えたのは、実業家、宗教家、文学者など多くの人々との絆でした。今回は、そういった人たちのひとり、棟方への支援を惜しまず、終生変わらぬ友情を持ち続けたベアテ・シロタ・ゴードン(1923-2012)について書いてみたいと思います。
ベアテについては、終戦後GHQ民生局員として日本国憲法草案に携わり、女性の権利について明記することに尽力した人物としてご存じの方が多いかもしれません。ウクライナ出身のユダヤ人を両親に持つベアテは、オーストリア・ウィーンで生まれ育ちますが、高名なピアニストであった父レオ・シロタが山田耕筰の招きで東京音楽学校(現東京藝術大学音楽部)教授として赴任することに伴い、1929年に来日し、その後1939年にサンフランシスコのカレッジに入学するまでの約10年間を日本で過ごしました。日本語と日本人気質に通じていた彼女は、アメリカ軍事情報部、タイムズ社勤務を経てGHQの要員として再来日し、憲法草案の仕事を任命されることになるのです。
新憲法草案完成を見届けてアメリカに戻ったベアテは、1958年、日本の優れた芸術文化を紹介するジャパンソサエティー・パフォーミングアーツ部門初代ディレクターに就任し、1959年ロックフェラー財団の招きで渡米した棟方を迎えます。ベアテは現地での個展や講演旅行に同行して通訳を務めるほか日常生活全般の世話をして支え、棟方も生活に困窮したソサエティー所属の学生芸術家のために板画を刷って資金協力をし、信頼関係を深めていきました。ベアテは率直で飾らない棟方の気性に好感を持ち、棟方もまた誠実なベアテに心から感謝をしていたようです。1975年5月、来日したベアテが病床の棟方を見舞うと、無理に起き上がり入院中に書いたという1枚の絵をベアテに贈ったそうです。同年9月に棟方は亡くなり、それが永遠の別れとなりました。
1993年にソサエティーを退職後、ベアテは日本各地を巡り、2003年には青森県立大学で(『活彩!保健大学だより』2003年)、2008年には青森中央学院大学を訪れ(『紀要』2008年)憲法と女性の権利について講演会を開いています。棟方の故郷青森を訪れたベアテは、在りし日を偲び感慨深かったのではないでしょうか。
この文章を書くにあたっては、本文であげたもののほかベアテ・シロタ・ゴードン『1945年のクリスマス 日本国憲法に男女平等を書いた女性の自伝』(柏書房 1995年)などを参考にしました。
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