「あおもり歴史トリビア」第569号(令和5年9月8日配信)
2023/09/08 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第569号(令和5年9月8日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは。歴史資料室の福田です。
今年は板画家・棟方志功(1903-75)と作家・詩人の北畠八穂(本名美代 1903-82)の生誕120年にあたります。今回は同じ年に同じ青森市に生まれた2人の交流についてお話しようと思います。
八穂の親戚宅が志功の生家近くにあり、子どもの頃一緒に遊んだという2人が再会し、交流を深めていくのは、八穂が住む鎌倉市鎌倉山に、志功がアトリエ兼別荘を構えてからのことでした。八穂は文学を志して昭和3年(1928)上京しますが、持病カリエスの療養のため、昭和7年に気候が温暖で自然に恵まれた鎌倉町(現鎌倉市)に移住。当初は鶴岡八幡宮東側の二階堂地区、昭和23年以降は鎌倉市西部の別荘地・鎌倉山に住んでいました。一方の志功は、大正13年(1924)絵画修行のため上京し、その後都内に家を持ちますが、昭和30年、31年の国際展での連続グランプリ受賞後は多忙を極めました。そこで、制作のための落ち着いた環境を求め、昭和32年に鎌倉山に広い庭とアトリエを備えた家を建て、昭和45年頃からは生活の拠点も東京の自宅から移していたのです。
2人の家はバス停ひとつほどの距離にあり、お互いによく行き来したといいます。会った時はいつも津軽弁での会話がはずみ、時にはお酒を飲んだ志功が上機嫌で津軽民謡「弥三郎節」を唄うこともあったそうです。仕事の上でも、八穂がレンブラント展について新聞に寄稿するときは、絵画に詳しい志功に相談に行ったこともあったといいます。
八穂は、小説集『東宮妃』(1966年 文治堂書店)の出版にあたり、志功に装幀挿画を依頼しました。当時の志功は、谷崎潤一郎の『鍵』(1956年 中央公論社)のヒットで人気が沸騰し、膨大な仕事を抱えていましたが快く応じ、同い年・同郷の2人による本が完成したのです。外箱は紫一色で描かれた秋の草花、表紙は燃える炎と青い波で、挿画も志功が担当したこの書籍は、表題作を含む時代小説2編と、自伝的小説「右足のスキー」を含む現代小説2編が収められています。
その後、八穂は雑誌『暮しの手帖』に随筆「津軽野」を連載することになり、挿画は志功が描く予定だったことが、八穂の随筆集『透きとおった人々』(1980年 東京新聞出版局)、佐藤幸子『北畠八穂のものがたり』(2005年 北の街社)に書かれていますが、志功の健康状態が悪化し死を迎えたことで、八穂と志功の2人による津軽の本は実現することなく終わってしまいました。八穂は、『透きとおった人々』の中で、志功が『東宮妃』出版後に、津軽のことについて八穂が文章、自分が絵を描いて本にしたいと語っていたと回想し、その死を悼んでいます。
志功の死後、八穂は絵本『かじやの鬼コ』(1978年 国土社)を書きました。志功の子ども時代を描いたこの本の装幀・挿画は同郷の関野準一郎(1903-78)が担当しています。また、八穂の死後出版された遺稿集『津軽野の雪』(1982年 朝日新聞社)の表紙は、志功の作品「善知鳥版画巻」全31柵(1938年)のなかの1柵「夜訪の柵」が飾りました。幼い頃の思い出や懐かしい津軽の風景など、故郷への想いが綴られた随筆集です。
この文章を書くにあたっては、本文であげたもののほか、『北畠八穂展 特別展 北のメルヘン作家』(1994年 青森県近代文学館)を参考にしました。
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青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
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今年は板画家・棟方志功(1903-75)と作家・詩人の北畠八穂(本名美代 1903-82)の生誕120年にあたります。今回は同じ年に同じ青森市に生まれた2人の交流についてお話しようと思います。
八穂の親戚宅が志功の生家近くにあり、子どもの頃一緒に遊んだという2人が再会し、交流を深めていくのは、八穂が住む鎌倉市鎌倉山に、志功がアトリエ兼別荘を構えてからのことでした。八穂は文学を志して昭和3年(1928)上京しますが、持病カリエスの療養のため、昭和7年に気候が温暖で自然に恵まれた鎌倉町(現鎌倉市)に移住。当初は鶴岡八幡宮東側の二階堂地区、昭和23年以降は鎌倉市西部の別荘地・鎌倉山に住んでいました。一方の志功は、大正13年(1924)絵画修行のため上京し、その後都内に家を持ちますが、昭和30年、31年の国際展での連続グランプリ受賞後は多忙を極めました。そこで、制作のための落ち着いた環境を求め、昭和32年に鎌倉山に広い庭とアトリエを備えた家を建て、昭和45年頃からは生活の拠点も東京の自宅から移していたのです。
2人の家はバス停ひとつほどの距離にあり、お互いによく行き来したといいます。会った時はいつも津軽弁での会話がはずみ、時にはお酒を飲んだ志功が上機嫌で津軽民謡「弥三郎節」を唄うこともあったそうです。仕事の上でも、八穂がレンブラント展について新聞に寄稿するときは、絵画に詳しい志功に相談に行ったこともあったといいます。
八穂は、小説集『東宮妃』(1966年 文治堂書店)の出版にあたり、志功に装幀挿画を依頼しました。当時の志功は、谷崎潤一郎の『鍵』(1956年 中央公論社)のヒットで人気が沸騰し、膨大な仕事を抱えていましたが快く応じ、同い年・同郷の2人による本が完成したのです。外箱は紫一色で描かれた秋の草花、表紙は燃える炎と青い波で、挿画も志功が担当したこの書籍は、表題作を含む時代小説2編と、自伝的小説「右足のスキー」を含む現代小説2編が収められています。
その後、八穂は雑誌『暮しの手帖』に随筆「津軽野」を連載することになり、挿画は志功が描く予定だったことが、八穂の随筆集『透きとおった人々』(1980年 東京新聞出版局)、佐藤幸子『北畠八穂のものがたり』(2005年 北の街社)に書かれていますが、志功の健康状態が悪化し死を迎えたことで、八穂と志功の2人による津軽の本は実現することなく終わってしまいました。八穂は、『透きとおった人々』の中で、志功が『東宮妃』出版後に、津軽のことについて八穂が文章、自分が絵を描いて本にしたいと語っていたと回想し、その死を悼んでいます。
志功の死後、八穂は絵本『かじやの鬼コ』(1978年 国土社)を書きました。志功の子ども時代を描いたこの本の装幀・挿画は同郷の関野準一郎(1903-78)が担当しています。また、八穂の死後出版された遺稿集『津軽野の雪』(1982年 朝日新聞社)の表紙は、志功の作品「善知鳥版画巻」全31柵(1938年)のなかの1柵「夜訪の柵」が飾りました。幼い頃の思い出や懐かしい津軽の風景など、故郷への想いが綴られた随筆集です。
この文章を書くにあたっては、本文であげたもののほか、『北畠八穂展 特別展 北のメルヘン作家』(1994年 青森県近代文学館)を参考にしました。
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