「あおもり歴史トリビア」第575号(令和5年10月20日配信)
2023/10/20 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第575号(令和5年10月20日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは。歴史資料室の福田です。
歴史資料室では、企画展示「学び舎の思い出 学校旧跡めぐり3」を開催中です。学校生活を彩る様々な思い出のなかで、今回は給食について書いてみたいとおもいます。
文部科学省ホームページ掲載「学制百年史」によれば、日本の学校給食は、明治22年(1889)山形県鶴岡町(現鶴岡市)の私立忠愛小学校で、仏教の慈善団体が貧困児童救済のため実施したのが初めとされています。国が学校給食に関与するのは、昭和7年に貧困児童救済を目的とした訓令を定め、国庫金を支出したことが最初です。青森市の長島尋常小学校も、この年から給食と栄養教育を行い、昭和9年12月11日付『東奥日報』に「給食模範校」として取り上げられています。
その後、第二次世界大戦の深刻化と共に中止となった学校給食は(前掲「学制百年史」)、大戦終結後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)、ララ(アメリカ大統領が設置を認可した日本向け援助団体)の物資援助を受けて再開し、昭和21年12月東京、神奈川、千葉3都県の小学校で始まり、翌22年から全国的に拡大します。青森市でも同年2月から小学校で給食が開始されました。ただ、まだこの時点では全校ではなく(6校とも)、全校での実施は昭和26年まで待つことになりました。そして、昭和24年度版の『青森県教育要覧』によると、当初のメニューは、青森県に給食物資として配給された元軍用缶詰、調味料として醤油、味噌を用いたものであったようです。その後、ジュースや肉缶詰、粉乳、乾燥果物が新たに給食物資として配給となりました。
しかし、その多くが食糧供給にあてられてきた、アメリカのガリオア資金(占領地行政救済特別資金)が昭和26年に打ち切られることになり、学校給食の継続が困難となりました。これに対して政府は給食継続を閣議決定し、必要財源を国庫負担としました(前掲「学制百年史」)。それでも保護者の給食費負担が増えることになり、青森市ではこれに支援を行いますが、給食はやむなく中止に追い込まれます。『教育広報2巻2号』(1947年 青森県教育委員会)には、給食廃止後の給食室を、千刈小学校、油川小学校が視聴覚室、図書閲覧室、家庭科実習室への転用を検討している旨が記載されています。
昭和29年6月、学校給食法制定で給食の国庫補助が明文化されると、昭和33年10月、堤小学校をモデル給食校として初の給食が実施され、その後段階的に拡大し、昭和55年には市内全小学校が完全給食となります。中学校は昭和57年から全中学校でミルク給食が始まり、平成16年に全中学校で完全給食を実施するに至りました。(『令和5年度 青森市の教育』)
一方、浪岡町では、昭和37年浪岡町立北中野小学校(現浪岡南小学校)でPTAの任意により給食を実施したのが始まりで、昭和40年には全小中学校が完全給食となっています。
(同上『令和5年度 青森市の教育』)
アウガ8階企画展会場では、関連図書として給食に関する書籍も紹介しています。この機会に是非お手にとってご覧ください。
今回の文章を書くにあたっては、本文であげたもののほか『新青森市史 別編2教育(2)』(1999年 青森市史編集委員会)、『市町村の学校給食のあゆみ』(2009年 青森県学校給食会)、『青森市戦災復興史』(1952年 青森市政調査会)などを参考にしました。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
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文部科学省ホームページ掲載「学制百年史」によれば、日本の学校給食は、明治22年(1889)山形県鶴岡町(現鶴岡市)の私立忠愛小学校で、仏教の慈善団体が貧困児童救済のため実施したのが初めとされています。国が学校給食に関与するのは、昭和7年に貧困児童救済を目的とした訓令を定め、国庫金を支出したことが最初です。青森市の長島尋常小学校も、この年から給食と栄養教育を行い、昭和9年12月11日付『東奥日報』に「給食模範校」として取り上げられています。
その後、第二次世界大戦の深刻化と共に中止となった学校給食は(前掲「学制百年史」)、大戦終結後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)、ララ(アメリカ大統領が設置を認可した日本向け援助団体)の物資援助を受けて再開し、昭和21年12月東京、神奈川、千葉3都県の小学校で始まり、翌22年から全国的に拡大します。青森市でも同年2月から小学校で給食が開始されました。ただ、まだこの時点では全校ではなく(6校とも)、全校での実施は昭和26年まで待つことになりました。そして、昭和24年度版の『青森県教育要覧』によると、当初のメニューは、青森県に給食物資として配給された元軍用缶詰、調味料として醤油、味噌を用いたものであったようです。その後、ジュースや肉缶詰、粉乳、乾燥果物が新たに給食物資として配給となりました。
しかし、その多くが食糧供給にあてられてきた、アメリカのガリオア資金(占領地行政救済特別資金)が昭和26年に打ち切られることになり、学校給食の継続が困難となりました。これに対して政府は給食継続を閣議決定し、必要財源を国庫負担としました(前掲「学制百年史」)。それでも保護者の給食費負担が増えることになり、青森市ではこれに支援を行いますが、給食はやむなく中止に追い込まれます。『教育広報2巻2号』(1947年 青森県教育委員会)には、給食廃止後の給食室を、千刈小学校、油川小学校が視聴覚室、図書閲覧室、家庭科実習室への転用を検討している旨が記載されています。
昭和29年6月、学校給食法制定で給食の国庫補助が明文化されると、昭和33年10月、堤小学校をモデル給食校として初の給食が実施され、その後段階的に拡大し、昭和55年には市内全小学校が完全給食となります。中学校は昭和57年から全中学校でミルク給食が始まり、平成16年に全中学校で完全給食を実施するに至りました。(『令和5年度 青森市の教育』)
一方、浪岡町では、昭和37年浪岡町立北中野小学校(現浪岡南小学校)でPTAの任意により給食を実施したのが始まりで、昭和40年には全小中学校が完全給食となっています。
(同上『令和5年度 青森市の教育』)
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今回の文章を書くにあたっては、本文であげたもののほか『新青森市史 別編2教育(2)』(1999年 青森市史編集委員会)、『市町村の学校給食のあゆみ』(2009年 青森県学校給食会)、『青森市戦災復興史』(1952年 青森市政調査会)などを参考にしました。
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