「あおもり歴史トリビア」第588号(令和6年2月2日配信)
2024/02/02 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第588号(令和6年2月2日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは。歴史資料室の村上です。先月の担当回(1月12日配信)では館内展示「青森市内石碑めぐり2」の中から「本多徳治(ほんだ・とくじ)の碑」を取り上げ、碑の建立に関わった竹内俊吉、須藤均治、黒滝俊雄についてお話ししました。今回はその続きです。
「本多徳治の碑」について調べる過程で、須藤が横内小学校の校歌の作詞者であることを知りました。岩木村(現弘前市)出身の須藤がなぜ作詞を手がけたのかが気になり、『記念誌 横内教育百年祭』(横内教育百年祭協賛会 1977年)を確認したところ、須藤は「校歌制作の裏話」という文章を寄せていました。興味深いのはこの文章に竹内と黒滝の名前が登場することです。
「校歌制作の裏話」によると、須藤は昭和25年(1950)、家族とともに深浦町から横内村へ引っ越しました。それは須藤の妻が横内村の村営診療所長として招かれたためでした。須藤は子どもが通う横内小学校のPTA会員となり、翌年4月には第2代会長に選出されています。
そのPTAの会合で議題となったのが校歌制定でした。すでに校歌の作詞は別の人物に依頼していましたができあがらず、学校側は困惑していたといいます。そこで、須藤は知り合いの詩人に依頼しようと考え、昭和26年10月中旬に弘前市へ出かけました。しかし、作詞のための現地取材をする時間がないという理由で断られてしまいました。
意気消沈した須藤が横内村へ帰る途中、バスの車内でふと頭に「八つ並みよろう甲田嶺」という詞が浮かんできました。これは校歌の三番の歌詞となる一節です。家に帰った須藤は急いで詞をまとめ、推敲を重ねて歌詞の原型を作りました。
そして、須藤は歌詞を持って竹内を訪ねました。竹内と須藤はともに東奥日報社に勤務した経験があり、親しい間柄でした。竹内は歌詞に目を通すと一言だけ冗談を口にしました。その反応を見て自信を得た須藤は歌詞を学校へ持っていき、校長と教頭から承認を得ました。
次に須藤は作曲担当の木村繁(きむら・しげし)へ歌詞の完成を知らせました。木村は弘前高校の教員で、県内各地の校歌の作曲を手がけています。連絡を受けた木村は黒滝とともに横内村を訪れました。二人が横内村を訪れた日は天気が良く、須藤の家族とともに横内浄水場へピクニックに出かけることになりました。このピクニックには校歌作曲のための取材という意味もあったのかもしれません。木村はピクニックを終えると須藤の家で「メロデーを口ずさみながらすらすらと」楽譜を書きました。
こうして校歌は完成し、昭和26年11月25日の校歌制定発表会で披露されました。昭和47年に歌詞の一部を改作しましたが、現在も子どもたちによって歌い継がれています。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
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「本多徳治の碑」について調べる過程で、須藤が横内小学校の校歌の作詞者であることを知りました。岩木村(現弘前市)出身の須藤がなぜ作詞を手がけたのかが気になり、『記念誌 横内教育百年祭』(横内教育百年祭協賛会 1977年)を確認したところ、須藤は「校歌制作の裏話」という文章を寄せていました。興味深いのはこの文章に竹内と黒滝の名前が登場することです。
「校歌制作の裏話」によると、須藤は昭和25年(1950)、家族とともに深浦町から横内村へ引っ越しました。それは須藤の妻が横内村の村営診療所長として招かれたためでした。須藤は子どもが通う横内小学校のPTA会員となり、翌年4月には第2代会長に選出されています。
そのPTAの会合で議題となったのが校歌制定でした。すでに校歌の作詞は別の人物に依頼していましたができあがらず、学校側は困惑していたといいます。そこで、須藤は知り合いの詩人に依頼しようと考え、昭和26年10月中旬に弘前市へ出かけました。しかし、作詞のための現地取材をする時間がないという理由で断られてしまいました。
意気消沈した須藤が横内村へ帰る途中、バスの車内でふと頭に「八つ並みよろう甲田嶺」という詞が浮かんできました。これは校歌の三番の歌詞となる一節です。家に帰った須藤は急いで詞をまとめ、推敲を重ねて歌詞の原型を作りました。
そして、須藤は歌詞を持って竹内を訪ねました。竹内と須藤はともに東奥日報社に勤務した経験があり、親しい間柄でした。竹内は歌詞に目を通すと一言だけ冗談を口にしました。その反応を見て自信を得た須藤は歌詞を学校へ持っていき、校長と教頭から承認を得ました。
次に須藤は作曲担当の木村繁(きむら・しげし)へ歌詞の完成を知らせました。木村は弘前高校の教員で、県内各地の校歌の作曲を手がけています。連絡を受けた木村は黒滝とともに横内村を訪れました。二人が横内村を訪れた日は天気が良く、須藤の家族とともに横内浄水場へピクニックに出かけることになりました。このピクニックには校歌作曲のための取材という意味もあったのかもしれません。木村はピクニックを終えると須藤の家で「メロデーを口ずさみながらすらすらと」楽譜を書きました。
こうして校歌は完成し、昭和26年11月25日の校歌制定発表会で披露されました。昭和47年に歌詞の一部を改作しましたが、現在も子どもたちによって歌い継がれています。
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