「あおもり歴史トリビア」第605号(令和6年6月14日配信)
2024/06/14 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第605号(令和6年6月14日配信)
■□■□■□■□■□■
〈青森市メールマガジン〉
■□■□■□■□■□■
こんにちは。歴史資料室の村上です。
5月17日に配信したメールマガジンで青森市出身の俳人・岩谷山梔子(いわや・くちなし)をご紹介しました。昨年刊行された舘田勝弘編著『岩谷山梔子全句集』(2023年)のあとがきには「青森市に山梔子句碑を建立することは未だに果たせずにいるが、それに代わる紙の碑として『岩谷山梔子全句集』を刊行することができた」という言葉があります。
山梔子は河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)や大須賀乙字(おおすが・おつじ)といった俳人たちと交流し、中央の俳壇で活躍しましたが、出身地である青森市に句碑はありません。しかし、青森市には山梔子の父親に関する石碑があります。それは蓮心寺にある「陸松斎岩谷一撰翁碑」です。
陸松斎(りくしょうさい)岩谷一撰(いわや・いっせん)は浅草遠州流の挿花師(華道の専門家)です。本名は岩谷和助といい、大町で岩谷商店という雑貨店を営んでいました。明治25年(1892)発行の「青森実地明細絵図」には岩谷商店が「名産塗物」と「鹿児島授産煙草」を扱う店として描かれています。
また、同じ年に発行された白崎五郎七編『日本全国商工人名録』には岩谷和助の項に「国分煙草卸商兼うに製造」と記されています。国分(こくぶ)煙草は鹿児島県国分地方産のタバコで、高級品とされていました。うに製品の製造に関しては、和助が明治28年に京都で行われた第4回内国勧業博覧会にうにの塩辛を出品して褒状を受けたという記録があります(『第四回内国勧業博覧会授賞人名録』1895年)。和助はさまざまな商品を扱う商人だったようですね。
一方、和助は写真家で浅草遠州流の挿花師でもあった柴田一奇(号は龍松斎〈りゅうしょうさい〉)から華道を学びました。さらに東京で修行をして、華道教授を業とするようになったといいます(一戸岳逸編『青森寺院志』青森通俗図書館 1934年)。和助が華道を学び始めた時期は不明ですが、明治36年10月30日付『東奥日報』に岩谷和助と川合喜吉が発起人となり挿花会を開催するという内容の記事が掲載されており、この頃には挿花師として活動していたとみられます。
和助は大正8年(1919)9月に亡くなり、その翌月に光行寺で門下生らによる追善挿花会が催されました。そして、17回忌を迎えた昭和10年(1935)、蓮心寺に石碑が建立されました。碑文は弘前市出身の書家・谷口俊夫(号は雲泉)が揮毫したもので、碑の裏面には発起人として門下生らの名前が刻まれています。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
登録の変更や利用停止の手続は、次の画面からどうぞ。
○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
■□■□■□■□■□■
〈青森市メールマガジン〉
■□■□■□■□■□■
こんにちは。歴史資料室の村上です。
5月17日に配信したメールマガジンで青森市出身の俳人・岩谷山梔子(いわや・くちなし)をご紹介しました。昨年刊行された舘田勝弘編著『岩谷山梔子全句集』(2023年)のあとがきには「青森市に山梔子句碑を建立することは未だに果たせずにいるが、それに代わる紙の碑として『岩谷山梔子全句集』を刊行することができた」という言葉があります。
山梔子は河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)や大須賀乙字(おおすが・おつじ)といった俳人たちと交流し、中央の俳壇で活躍しましたが、出身地である青森市に句碑はありません。しかし、青森市には山梔子の父親に関する石碑があります。それは蓮心寺にある「陸松斎岩谷一撰翁碑」です。
陸松斎(りくしょうさい)岩谷一撰(いわや・いっせん)は浅草遠州流の挿花師(華道の専門家)です。本名は岩谷和助といい、大町で岩谷商店という雑貨店を営んでいました。明治25年(1892)発行の「青森実地明細絵図」には岩谷商店が「名産塗物」と「鹿児島授産煙草」を扱う店として描かれています。
また、同じ年に発行された白崎五郎七編『日本全国商工人名録』には岩谷和助の項に「国分煙草卸商兼うに製造」と記されています。国分(こくぶ)煙草は鹿児島県国分地方産のタバコで、高級品とされていました。うに製品の製造に関しては、和助が明治28年に京都で行われた第4回内国勧業博覧会にうにの塩辛を出品して褒状を受けたという記録があります(『第四回内国勧業博覧会授賞人名録』1895年)。和助はさまざまな商品を扱う商人だったようですね。
一方、和助は写真家で浅草遠州流の挿花師でもあった柴田一奇(号は龍松斎〈りゅうしょうさい〉)から華道を学びました。さらに東京で修行をして、華道教授を業とするようになったといいます(一戸岳逸編『青森寺院志』青森通俗図書館 1934年)。和助が華道を学び始めた時期は不明ですが、明治36年10月30日付『東奥日報』に岩谷和助と川合喜吉が発起人となり挿花会を開催するという内容の記事が掲載されており、この頃には挿花師として活動していたとみられます。
和助は大正8年(1919)9月に亡くなり、その翌月に光行寺で門下生らによる追善挿花会が催されました。そして、17回忌を迎えた昭和10年(1935)、蓮心寺に石碑が建立されました。碑文は弘前市出身の書家・谷口俊夫(号は雲泉)が揮毫したもので、碑の裏面には発起人として門下生らの名前が刻まれています。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
登録の変更や利用停止の手続は、次の画面からどうぞ。
○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html