「あおもり歴史トリビア」第609号(令和6年7月12日配信)
2024/07/12 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第609号(令和6年7月12日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは。歴史資料室の村上です。
明治45年(1912)7月12日、青森市出身の岩川克輝(いわかわ・かつてる 1880-1944)が文部大臣から医学博士の学位を授与されました。岩川は青森市出身者で初めて博士の学位を授与された人物とみられます(『昭和4年 東奥年鑑』〈東奥日報社 1928年〉掲載の「博士一覧」による)。
岩川は青森県立第一中学校(現弘前高校)、第二高等学校大学予科(東北大学の前身校の一つ)を経て東京帝国大学医科大学へ進学しました。さらに同大学の大学院へ進んで薬物学の研究に携わり、小児科学の研究にも取り組みました。
大学進学時には学費に関する問題を抱えていたそうですが、柏原彦太郎ら青森市の有志により設立された青森市育英会(明治36年発足)から奨学金の貸与を受け、勉強を続けることができました。育英会にとって岩川は初めての奨学生でした。明治40年8月には青森へ帰省した岩川が育英会の学生講話会に参加し、自身の研究について説明しています(明治40年8月29日付『東奥日報』)。支援してきた育英会の会員たちにとって嬉しい報告だったことでしょう。
さて、岩川は医学博士の学位を授与された翌月に新潟医学専門学校(のちに新潟医科大学と改称、現新潟大学医学部)の教授となりました。実は岩川は明治44年にも新潟医学専門学校へ赴いて薬物学の講義を行っています。その講義は学生たちを魅了する名講義でしたが、岩川は全ての講義が終わる前に東京へ戻ることになりました。驚いた学生たちは集会を開いて校長に「岩川先生の講義を続けて貰いたい」と訴え、校長は「そのうちに必らず再び新潟へ来て、残りの講義をして下さる」と言って学生たちをなだめたそうです。そして、校長の言葉通り、岩川は再び新潟で教壇に立つことになったのです。
岩川は薬物学教室と小児科学教室の教授を兼任し、研究者としては特にくる病(ビタミンDの欠乏により起こる骨の病気)の研究に熱心に取り組みました。当時、くる病は年長者にみられる風土病(ある一定の地域に限って多発する病気)と考えられていましたが、岩川はくる病を全国的に存在する病気と考え、乳児にみられるくる病が本来のくる病であると主張しました。その研究成果は昭和10年(1935)5月、新潟医科大学を会場として行われた日本小児科学会第40回総会において報告されています。岩川の報告は3時間にわたる長いものでしたが、ユーモアを交えて解説し、聴衆を飽きさせることがなかったそうです。
※今回の内容は『新潟大学医学部五十年史』(1962年 新潟大学医学部五十周年記念会)、『新潟県百年史 下巻』(野島出版 1969年)、『青森市議会史 明治編』(1986年 青森市議会)などを参考にしました。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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明治45年(1912)7月12日、青森市出身の岩川克輝(いわかわ・かつてる 1880-1944)が文部大臣から医学博士の学位を授与されました。岩川は青森市出身者で初めて博士の学位を授与された人物とみられます(『昭和4年 東奥年鑑』〈東奥日報社 1928年〉掲載の「博士一覧」による)。
岩川は青森県立第一中学校(現弘前高校)、第二高等学校大学予科(東北大学の前身校の一つ)を経て東京帝国大学医科大学へ進学しました。さらに同大学の大学院へ進んで薬物学の研究に携わり、小児科学の研究にも取り組みました。
大学進学時には学費に関する問題を抱えていたそうですが、柏原彦太郎ら青森市の有志により設立された青森市育英会(明治36年発足)から奨学金の貸与を受け、勉強を続けることができました。育英会にとって岩川は初めての奨学生でした。明治40年8月には青森へ帰省した岩川が育英会の学生講話会に参加し、自身の研究について説明しています(明治40年8月29日付『東奥日報』)。支援してきた育英会の会員たちにとって嬉しい報告だったことでしょう。
さて、岩川は医学博士の学位を授与された翌月に新潟医学専門学校(のちに新潟医科大学と改称、現新潟大学医学部)の教授となりました。実は岩川は明治44年にも新潟医学専門学校へ赴いて薬物学の講義を行っています。その講義は学生たちを魅了する名講義でしたが、岩川は全ての講義が終わる前に東京へ戻ることになりました。驚いた学生たちは集会を開いて校長に「岩川先生の講義を続けて貰いたい」と訴え、校長は「そのうちに必らず再び新潟へ来て、残りの講義をして下さる」と言って学生たちをなだめたそうです。そして、校長の言葉通り、岩川は再び新潟で教壇に立つことになったのです。
岩川は薬物学教室と小児科学教室の教授を兼任し、研究者としては特にくる病(ビタミンDの欠乏により起こる骨の病気)の研究に熱心に取り組みました。当時、くる病は年長者にみられる風土病(ある一定の地域に限って多発する病気)と考えられていましたが、岩川はくる病を全国的に存在する病気と考え、乳児にみられるくる病が本来のくる病であると主張しました。その研究成果は昭和10年(1935)5月、新潟医科大学を会場として行われた日本小児科学会第40回総会において報告されています。岩川の報告は3時間にわたる長いものでしたが、ユーモアを交えて解説し、聴衆を飽きさせることがなかったそうです。
※今回の内容は『新潟大学医学部五十年史』(1962年 新潟大学医学部五十周年記念会)、『新潟県百年史 下巻』(野島出版 1969年)、『青森市議会史 明治編』(1986年 青森市議会)などを参考にしました。
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