「あおもり歴史トリビア」第622号(令和6年10月11日配信)
2024/10/11 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第622号(令和6年10月11日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
油川村に小学校の先生として赴任した大瀬熊三郎が著し、明治25年(1892)に発刊となった『油川沿革誌』(以下『沿革誌』)は、文治5年(1189)5月に夷島へ向かう源義経一行が油川を訪れ、当時この地にあった円明寺に宿泊したと記しています。ちなみに、同寺は慶長11年(1606)に弘前寺町に移転するも、火災に遭い現在地には慶安3年(1650)に移ったといいます(『角川日本地名大辞典2青森県』)。さらに『沿革誌』は、当時の円明寺には弁慶が書写した「経文」などが残されているといい、佐々木勝三ほか『義経伝説の謎』(勁文社、1986年)は円明寺が所蔵するという「弁慶筆の『大般若経』」の写真を掲載しています。
油川村における義経伝承について、木村慎一『油川町の歴史』(1993年)では油川の浄土真宗・円明寺の創建年が明応8年(1499)であることからこれを一蹴しています。実は大瀬もこれは分かっていて、円明寺はもともと真言宗の寺院であったが荒廃し、明応8年に浄土真宗の寺院として再興したのだと主張していました。
一方、西田源蔵『油川町誌』(1928年)は、三厩の義経寺などが義経伝説で有名になった結果、三厩への通り道となる油川に「義経主従が一跡を留めぬ筈がない」という発想から「巧みに造られた」ストーリーと断じ、『油川沿革誌』の著者「大瀬氏は何処に此の材料を得たか知らぬ」といいます。
義経伝説は江戸時代、17世紀の後半から語られるようになり、それが「蝦夷渡りからさらに大陸へと想像を膨らませていった創作・捏造の積み重ねの物語」(菊池勇夫『義経伝説の近世的展開』サッポロ堂書店、2016年)であると評価されています。こうした評価に異論はありませんが、一方で西田源蔵が指摘する「何処に此の材料を得たか」という点も気になるところです。
私自身まだ十分に市内に伝えられている義経伝説を収集してはいませんが、油川村のほかにも野内村・横内村などでのエピソード(1997年9月15日付『広報あおもり』所収「青森今・昔」)のほか、善知鳥神社にも義経一行は立ち寄ったともいうそうです。これらのうち野内村の貴船神社の話などは菅江真澄の紀行文の中に見えていて、確実に江戸時代に形作られたものと分かるものもあります。しかし、多くは話の出所が分かりません。何かベースとなる話があったのか、それともまったくの創作なのか…。
かつて長谷川成一氏は中世十三湊にまつわる津波伝承について、「伝承といえども史料の再検討はなされる必要があり」(同『近世国家と東北大名』吉川弘文館、1998年)と指摘しています。市内の義経伝説に関してもそれが創作であったとしても、「物語」の背景をたどる作業は必要なのではないかと思っています。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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油川村に小学校の先生として赴任した大瀬熊三郎が著し、明治25年(1892)に発刊となった『油川沿革誌』(以下『沿革誌』)は、文治5年(1189)5月に夷島へ向かう源義経一行が油川を訪れ、当時この地にあった円明寺に宿泊したと記しています。ちなみに、同寺は慶長11年(1606)に弘前寺町に移転するも、火災に遭い現在地には慶安3年(1650)に移ったといいます(『角川日本地名大辞典2青森県』)。さらに『沿革誌』は、当時の円明寺には弁慶が書写した「経文」などが残されているといい、佐々木勝三ほか『義経伝説の謎』(勁文社、1986年)は円明寺が所蔵するという「弁慶筆の『大般若経』」の写真を掲載しています。
油川村における義経伝承について、木村慎一『油川町の歴史』(1993年)では油川の浄土真宗・円明寺の創建年が明応8年(1499)であることからこれを一蹴しています。実は大瀬もこれは分かっていて、円明寺はもともと真言宗の寺院であったが荒廃し、明応8年に浄土真宗の寺院として再興したのだと主張していました。
一方、西田源蔵『油川町誌』(1928年)は、三厩の義経寺などが義経伝説で有名になった結果、三厩への通り道となる油川に「義経主従が一跡を留めぬ筈がない」という発想から「巧みに造られた」ストーリーと断じ、『油川沿革誌』の著者「大瀬氏は何処に此の材料を得たか知らぬ」といいます。
義経伝説は江戸時代、17世紀の後半から語られるようになり、それが「蝦夷渡りからさらに大陸へと想像を膨らませていった創作・捏造の積み重ねの物語」(菊池勇夫『義経伝説の近世的展開』サッポロ堂書店、2016年)であると評価されています。こうした評価に異論はありませんが、一方で西田源蔵が指摘する「何処に此の材料を得たか」という点も気になるところです。
私自身まだ十分に市内に伝えられている義経伝説を収集してはいませんが、油川村のほかにも野内村・横内村などでのエピソード(1997年9月15日付『広報あおもり』所収「青森今・昔」)のほか、善知鳥神社にも義経一行は立ち寄ったともいうそうです。これらのうち野内村の貴船神社の話などは菅江真澄の紀行文の中に見えていて、確実に江戸時代に形作られたものと分かるものもあります。しかし、多くは話の出所が分かりません。何かベースとなる話があったのか、それともまったくの創作なのか…。
かつて長谷川成一氏は中世十三湊にまつわる津波伝承について、「伝承といえども史料の再検討はなされる必要があり」(同『近世国家と東北大名』吉川弘文館、1998年)と指摘しています。市内の義経伝説に関してもそれが創作であったとしても、「物語」の背景をたどる作業は必要なのではないかと思っています。
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