「あおもり歴史トリビア」第650号(令和7年5月2日配信)
2025/05/02 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第650号(令和7年5月2日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
ここ1、2週間ほど、藩政時代に沖館村の新田開発に資するために開さくされたという「万太郎堰」(「萬」表記もありますが、「万」に統一します)について調べています。
万太郎なる人物は、おそらくこの堰の開さくに関わっていただろうとみられます。では、それはいつのことなのでしょうか。そして、万太郎の動機はどこにあったのか…知りたいことはいくつもあるのですが、どうにもこうにも史料に行きあたらないのです。
そこでまずは、文献整理から始めました。
私が目にした「万太郎堰」の記述がある文献で古いものは、昭和28年(1953)の肴倉弥八『青森市町内盛衰記』です。そこでは沖館村の庄屋を勤める浅利万太郎が堰の開さくを行ったと記しています。なお、同書は『陸奥国津軽郡村誌』(目下十分な書誌情報を得られていません)から引用しているものの、引用範囲が明確になっていません。この点は注意が必要で、万太郎を「昔万太郎と云う百姓」とする記述はこの文献からの引用かも知れません。一方、上の記述については『陸奥国津軽郡村誌』からの引用文ではないとみられ、肴倉は万太郎は「浅利」姓で沖館村の庄屋を勤めていたと人物としています。
さらに、堰は「安田村・浪館村の田地の灌漑用水を分水」しているため、しばしばこれら村々と水争いが起り、その調停に費用が嵩み財産を減らしたとも記しています。ちなみに、千富町にある「一本松」はその水争いの舞台であったと伝えられているようです。
さらに、肴倉は昭和32年に青森市教育委員会が発行した『青森市の歴史』に「青森平野開拓雑考」を執筆し、浅利万太郎は「大阪(ママ)落城の落人」とその出自を記し、さらに彼のほかに「沖館新田を開墾した人に柿崎刑部左衛門」がいるとしています。
肴倉が提示した万太郎の人物像は、その後鈴木政四郎・若狭谷五郎兵衛の著述に引き継がれることになりますが、このふたりは「沖館村の庄屋」という評価には与していません。
とはいえ、万太郎堰がいつからそう呼ばれていたかは依然として分かりません。わずか1例でしかありませんが、明治3年(1870)8月に浪館村の庄屋巳之松が弘前藩庁に提出したとみられる浪館村の絵図(弘前市立弘前図書館蔵)に描かれた万太郎堰は「沖館村用水セキ」とあるのみです。もちろん、これでもって万太郎堰の名称を否定するつもりはありません。
いずれにせよ、現在私たちが見聞きする万太郎像は肴倉の著作がベースになっていて―さらにたとえば、JR青森駅西側の「萬町」は沖館村の名主万太郎由来であるというバリエーションも加わりつつ、通説化しているものとみています。
次回は、沖館村の庄屋浅利万太郎についてご紹介いたします。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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万太郎なる人物は、おそらくこの堰の開さくに関わっていただろうとみられます。では、それはいつのことなのでしょうか。そして、万太郎の動機はどこにあったのか…知りたいことはいくつもあるのですが、どうにもこうにも史料に行きあたらないのです。
そこでまずは、文献整理から始めました。
私が目にした「万太郎堰」の記述がある文献で古いものは、昭和28年(1953)の肴倉弥八『青森市町内盛衰記』です。そこでは沖館村の庄屋を勤める浅利万太郎が堰の開さくを行ったと記しています。なお、同書は『陸奥国津軽郡村誌』(目下十分な書誌情報を得られていません)から引用しているものの、引用範囲が明確になっていません。この点は注意が必要で、万太郎を「昔万太郎と云う百姓」とする記述はこの文献からの引用かも知れません。一方、上の記述については『陸奥国津軽郡村誌』からの引用文ではないとみられ、肴倉は万太郎は「浅利」姓で沖館村の庄屋を勤めていたと人物としています。
さらに、堰は「安田村・浪館村の田地の灌漑用水を分水」しているため、しばしばこれら村々と水争いが起り、その調停に費用が嵩み財産を減らしたとも記しています。ちなみに、千富町にある「一本松」はその水争いの舞台であったと伝えられているようです。
さらに、肴倉は昭和32年に青森市教育委員会が発行した『青森市の歴史』に「青森平野開拓雑考」を執筆し、浅利万太郎は「大阪(ママ)落城の落人」とその出自を記し、さらに彼のほかに「沖館新田を開墾した人に柿崎刑部左衛門」がいるとしています。
肴倉が提示した万太郎の人物像は、その後鈴木政四郎・若狭谷五郎兵衛の著述に引き継がれることになりますが、このふたりは「沖館村の庄屋」という評価には与していません。
とはいえ、万太郎堰がいつからそう呼ばれていたかは依然として分かりません。わずか1例でしかありませんが、明治3年(1870)8月に浪館村の庄屋巳之松が弘前藩庁に提出したとみられる浪館村の絵図(弘前市立弘前図書館蔵)に描かれた万太郎堰は「沖館村用水セキ」とあるのみです。もちろん、これでもって万太郎堰の名称を否定するつもりはありません。
いずれにせよ、現在私たちが見聞きする万太郎像は肴倉の著作がベースになっていて―さらにたとえば、JR青森駅西側の「萬町」は沖館村の名主万太郎由来であるというバリエーションも加わりつつ、通説化しているものとみています。
次回は、沖館村の庄屋浅利万太郎についてご紹介いたします。
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