「あおもり歴史トリビア」第656号(令和7年6月13日配信)
2025/06/13 (Fri) 12:01
「あおもり歴史トリビア」第656号(令和7年6月13日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
先日、歴史資料室のフェイスブックで、今年が没後100年となる作家・大町桂月の話題を取り上げました。さらにおなじく、初代の青森市長を務めた工藤卓爾(くどう・たくじ)も今年没後100年を迎えます。
工藤卓爾は市制施行前の最後の青森町長であり、市長も通算4期務めており、明治中期~大正期の青森市(町)の行政を支えてきた人物のひとりといっていいでしょう。なかでも、同時代の人にとっては、明治43年(1910)5月の青森大火の際に尽力した工藤市長の姿が強く印象に残っているようです。
今回私が工藤卓爾の業績で注目したいのは、「青森開港」にまつわる点です。いうまでもなく、「開港」とは(1)新たに港や空港の設備をして業務を始めること、(2)外国の船舶の出入りや通商が条約や法令で認められること、であり(『日本国語大事典』)、(1)は「築港」と言い換えてもいいでしょう。そして彼は(1)(2)両方の「開港」に傾注したのです。
まず(1)についていうと、明治25年(1892)末までに青森の「築港」は、青森町の政治的な課題となっていて、当時の町長柿崎忠兵衛が内務大臣に上申しています。さらに、明治28年2月にも内務大臣と貴族院・衆議院両議長にあてて「青森築港請願書」(以下「請願書」)が提出されました(『青森市史』第3巻港湾編下)。
従来「請願書」の執筆者が誰なのが分からなかったのですが、工藤卓爾のご遺族が所蔵する文書のなかにその草稿があることが確認され、その末尾に「明治二十七年十二月工藤卓爾稿」とあることから、彼が執筆者であることが判明しました(河西英通「青森町長工藤卓爾の開港論をめぐって」2002年)。
しかし、築港はすぐには実現せず、彼が亡くなる前年の大正13年(1924)8月28日に竣工式が行われた、いわゆる「青森港第一期修築」まで待たされることになりました。
(2)についてはさきの「請願書」の草稿で、将来シベリア鉄道がオラジオストクまで到達し、さらにニカラグア運河ができて太平洋と・大西洋とが連絡するようになると、青森港が重要になると、世界貿易の未来像のなかに青森港を位置付けています。
さらに、明治30年3月13日付で貴族院・衆議院両議長あてで提出された青森港を特別輸入港とする請願書もまた彼が作成の最前線にいたことが判明しています(前掲河西稿)。これもまた実現までには曲折がありますが、明治39年4月1日に青森港は特別輸出港となりました。
つまり、文字通りの「青森開港」を捉えるとき、私たちは工藤卓爾をはじめこれらの課題に取り組んできた近代の先人たちに目を向けなくてはならないのです。
なお、工藤卓爾の1周忌にあわせて大正15年7月18日、合浦公園に建てられた彼の頌徳碑の除幕式が執り行われました。除幕を行ったのは孫で後に青森市長となる正でした(『東奥日報』大正15年7月19日付朝刊)。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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先日、歴史資料室のフェイスブックで、今年が没後100年となる作家・大町桂月の話題を取り上げました。さらにおなじく、初代の青森市長を務めた工藤卓爾(くどう・たくじ)も今年没後100年を迎えます。
工藤卓爾は市制施行前の最後の青森町長であり、市長も通算4期務めており、明治中期~大正期の青森市(町)の行政を支えてきた人物のひとりといっていいでしょう。なかでも、同時代の人にとっては、明治43年(1910)5月の青森大火の際に尽力した工藤市長の姿が強く印象に残っているようです。
今回私が工藤卓爾の業績で注目したいのは、「青森開港」にまつわる点です。いうまでもなく、「開港」とは(1)新たに港や空港の設備をして業務を始めること、(2)外国の船舶の出入りや通商が条約や法令で認められること、であり(『日本国語大事典』)、(1)は「築港」と言い換えてもいいでしょう。そして彼は(1)(2)両方の「開港」に傾注したのです。
まず(1)についていうと、明治25年(1892)末までに青森の「築港」は、青森町の政治的な課題となっていて、当時の町長柿崎忠兵衛が内務大臣に上申しています。さらに、明治28年2月にも内務大臣と貴族院・衆議院両議長にあてて「青森築港請願書」(以下「請願書」)が提出されました(『青森市史』第3巻港湾編下)。
従来「請願書」の執筆者が誰なのが分からなかったのですが、工藤卓爾のご遺族が所蔵する文書のなかにその草稿があることが確認され、その末尾に「明治二十七年十二月工藤卓爾稿」とあることから、彼が執筆者であることが判明しました(河西英通「青森町長工藤卓爾の開港論をめぐって」2002年)。
しかし、築港はすぐには実現せず、彼が亡くなる前年の大正13年(1924)8月28日に竣工式が行われた、いわゆる「青森港第一期修築」まで待たされることになりました。
(2)についてはさきの「請願書」の草稿で、将来シベリア鉄道がオラジオストクまで到達し、さらにニカラグア運河ができて太平洋と・大西洋とが連絡するようになると、青森港が重要になると、世界貿易の未来像のなかに青森港を位置付けています。
さらに、明治30年3月13日付で貴族院・衆議院両議長あてで提出された青森港を特別輸入港とする請願書もまた彼が作成の最前線にいたことが判明しています(前掲河西稿)。これもまた実現までには曲折がありますが、明治39年4月1日に青森港は特別輸出港となりました。
つまり、文字通りの「青森開港」を捉えるとき、私たちは工藤卓爾をはじめこれらの課題に取り組んできた近代の先人たちに目を向けなくてはならないのです。
なお、工藤卓爾の1周忌にあわせて大正15年7月18日、合浦公園に建てられた彼の頌徳碑の除幕式が執り行われました。除幕を行ったのは孫で後に青森市長となる正でした(『東奥日報』大正15年7月19日付朝刊)。
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