「あおもり歴史トリビア」第672号(令和7年10月3日配信)
2025/10/03 (Fri) 12:01
「あおもり歴史トリビア」第672号(令和7年10月3日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
前回私が担当したNo.669(9月12日配信)で、青森市民の農村部への疎開は昭和20年(1945)7月11日の県の緊急会議で、高齢者などの縁故疎開が決定されたことが社会的な背景にあると書きました。しかし先日みつけた文書から、もう少し遡る可能性がでてきたので、今回はその報告をいたします。
6月25日付で野内村浅虫区長が隣組長に宛てた文書がみつかりました。これによれば、青森市など野内村外から「物資(米その他)を持参して」隣組内に借家または間借りしている人がいるばあい、隣組長が家主の姓名を調査して区事務所に報告せよというのです。
この文書から、青森市内から米などの「物資」を持参して浅虫など農村部へ疎開していた市民がこの時点で一定数いたのではないかとみられるのです。しかも、持参した「物資」は青森市から受けた「配給物資」であった可能性が高いとみています。
すなわち、7月14日付『東奥日報』では農村部の配給量不足から、青森市などの都市部の住民が農村部への疎開に二の足を踏んでいることを伝えていますが、一方で農村部の食糧事情を居住地(=青森市などの都市部)からの配給で補うことで、疎開をしている市民がいたのです。
ですから、前回記したように「疎開」と「配給」はともに分かちがたいものであり、都市部から農村部への疎開は、極端な言い方をすると「居住地から受取る配給物資」が前提になっていたのではないかと思うのです。この点は、前回も「疎開先の縁故から求められた可能性があります」と書いた通りです。正規な手続きを経ないで疎開をする人の数が、手続きをした人の「数十倍」(7月28日付『東奥日報』)にのぼった理由はここにあるのではないでしょうか。
しかもこの文書の日付6月25日は、青森県へ2度目のB29が飛来した6月26日の前日です。ですから、青森県民(もちろん個人差はあるでしょう)の空襲への危機感はそれ以前に高まっていたのでしょう。このことは、3月10日の最初のB29の飛来、焼夷弾投下以降の『東奥日報』の記事を繰っていても感じられるところです。
さらに、京浜地区から受け入れた戦災罹災者からの情報に影響を受け、警戒警報が発令すると「防空従事者までが老幼者と一緒に荷物を持つて避難する」(7月2日付『東奥日報』)人もいたようです。
青森空襲は市民の避難が行政に否定されることで「罹災者数が多くなった」と評価されがちですが、戦災を回避・逃れようとした市民の行動にも目を向けるべきかと思います。それには、7月の仙台空襲や青函連絡船の爆撃からではなく、今回紹介した史料からも分かるように、少し時間をさかのぼって市民の行動に着目する必要があるとみています。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
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6月25日付で野内村浅虫区長が隣組長に宛てた文書がみつかりました。これによれば、青森市など野内村外から「物資(米その他)を持参して」隣組内に借家または間借りしている人がいるばあい、隣組長が家主の姓名を調査して区事務所に報告せよというのです。
この文書から、青森市内から米などの「物資」を持参して浅虫など農村部へ疎開していた市民がこの時点で一定数いたのではないかとみられるのです。しかも、持参した「物資」は青森市から受けた「配給物資」であった可能性が高いとみています。
すなわち、7月14日付『東奥日報』では農村部の配給量不足から、青森市などの都市部の住民が農村部への疎開に二の足を踏んでいることを伝えていますが、一方で農村部の食糧事情を居住地(=青森市などの都市部)からの配給で補うことで、疎開をしている市民がいたのです。
ですから、前回記したように「疎開」と「配給」はともに分かちがたいものであり、都市部から農村部への疎開は、極端な言い方をすると「居住地から受取る配給物資」が前提になっていたのではないかと思うのです。この点は、前回も「疎開先の縁故から求められた可能性があります」と書いた通りです。正規な手続きを経ないで疎開をする人の数が、手続きをした人の「数十倍」(7月28日付『東奥日報』)にのぼった理由はここにあるのではないでしょうか。
しかもこの文書の日付6月25日は、青森県へ2度目のB29が飛来した6月26日の前日です。ですから、青森県民(もちろん個人差はあるでしょう)の空襲への危機感はそれ以前に高まっていたのでしょう。このことは、3月10日の最初のB29の飛来、焼夷弾投下以降の『東奥日報』の記事を繰っていても感じられるところです。
さらに、京浜地区から受け入れた戦災罹災者からの情報に影響を受け、警戒警報が発令すると「防空従事者までが老幼者と一緒に荷物を持つて避難する」(7月2日付『東奥日報』)人もいたようです。
青森空襲は市民の避難が行政に否定されることで「罹災者数が多くなった」と評価されがちですが、戦災を回避・逃れようとした市民の行動にも目を向けるべきかと思います。それには、7月の仙台空襲や青函連絡船の爆撃からではなく、今回紹介した史料からも分かるように、少し時間をさかのぼって市民の行動に着目する必要があるとみています。
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