「あおもり歴史トリビア」第443号
2021/02/12 (Fri) 10:00
「あおもり歴史トリビア」第443号(令和3年2月12日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは!歴史資料室の鈴木です。
今回は、館内展示「あおもりのお医者さん-医療と衛生」の中で取り上げた、ひとりの医師についてお話ししたいと思います。
明治42年(1909)の4月から5月にかけて、『東奥日報』に「青森のお医者様」という特集記事が10回にわたり掲載されています。この記事は、当時の青森市内の開業医、勤務医の中から31人を紹介したものです。その中に、長尾健字という医師がいました。
長尾健字は、長尾介一郎の次男として明治9年に弘前に生まれました。介一郎は、明治17年頃から牛乳の販売を始め、弘前で搾乳業の谷量舎を創業した人物です。のちに青森の堤川河畔にも牧場を経営し、谷量舎青森支店として牛乳の販売を行いました。
健字は、弘前中学校から旧制二高(東北大学の前身のひとつ)の医学部に進み、明治33年に卒業して軍医となりました。明治35年の八甲田雪中行軍の際には、弘前から出発した歩兵第31連隊の行軍に見習医官として参加しています。
その後、軍医として日露戦争に従軍したのち、明治39年5月10日に青森市米町(現本町2丁目)で開業しました。さらに、明治42年には浦町に土地を求めて病院を建て、そちらを本院、米町を出張所としました。本院の場所は現在の橋本2丁目、国道の1本南を通る道沿いで、敷地内に病院と自宅を設けました。診察室のほかに看護婦室、薬局、消毒室、隔離室なども備えた近代的な病院です。病室も12室あり、屋根にはもとからあった建物の茅葺き屋根を利用したため夏涼しく冬暖かく病室には最適と、完成を伝える新聞記事に書かれています。
ところが、この屋根が災いし、翌43年5月3日に起きた青森大火の際、いったん火が落ち着き負傷者らを病院に収容したのですが、再び強まった火が茅葺き屋根に飛火し、病院は全焼してしまったのです。
大火後、焼け残った師範学校(現市役所本庁舎)東隣にあった裁縫女学校の建物を借りて診療を続けましたが、ひと月ほどで浦町の同じ場所に病院を再建することができました。その後は、近くの私立青森幼稚園の園医を引き受けるなど、大正・昭和と地元の親切なお医者さんとして市民に親しまれ、また青森市医師会長、青森県医師会長なども務めました。
長尾医師について、特集記事「青森のお医者様」には「性行共に陸軍々医総監森博士に相似たり」と、森林太郎(鴎外)に似ているといっています。また、「患者に接するに懇切叮嚀」で治療を乞う者が非常に多く、読書と骨董が好きで、とくに達磨の絵が好き、とも。そして「交際円満にして同僚の信用あり」と好意的に評されています。また、桂門会という会を組織して南画を研究し展覧会を開くなど、なかなかの趣味人でもあったようです。
長尾医師は昭和16年(1941)6月に亡くなり、長男直亮と次男久敬が病院を受け継ぎました。しかし、昭和20年7月28日の青森空襲の際、2人は患者と家族を避難させた後に病院を守ろうと残って消火に努めましたが、残念ながら亡くなられたということです。
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青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
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長尾健字は、長尾介一郎の次男として明治9年に弘前に生まれました。介一郎は、明治17年頃から牛乳の販売を始め、弘前で搾乳業の谷量舎を創業した人物です。のちに青森の堤川河畔にも牧場を経営し、谷量舎青森支店として牛乳の販売を行いました。
健字は、弘前中学校から旧制二高(東北大学の前身のひとつ)の医学部に進み、明治33年に卒業して軍医となりました。明治35年の八甲田雪中行軍の際には、弘前から出発した歩兵第31連隊の行軍に見習医官として参加しています。
その後、軍医として日露戦争に従軍したのち、明治39年5月10日に青森市米町(現本町2丁目)で開業しました。さらに、明治42年には浦町に土地を求めて病院を建て、そちらを本院、米町を出張所としました。本院の場所は現在の橋本2丁目、国道の1本南を通る道沿いで、敷地内に病院と自宅を設けました。診察室のほかに看護婦室、薬局、消毒室、隔離室なども備えた近代的な病院です。病室も12室あり、屋根にはもとからあった建物の茅葺き屋根を利用したため夏涼しく冬暖かく病室には最適と、完成を伝える新聞記事に書かれています。
ところが、この屋根が災いし、翌43年5月3日に起きた青森大火の際、いったん火が落ち着き負傷者らを病院に収容したのですが、再び強まった火が茅葺き屋根に飛火し、病院は全焼してしまったのです。
大火後、焼け残った師範学校(現市役所本庁舎)東隣にあった裁縫女学校の建物を借りて診療を続けましたが、ひと月ほどで浦町の同じ場所に病院を再建することができました。その後は、近くの私立青森幼稚園の園医を引き受けるなど、大正・昭和と地元の親切なお医者さんとして市民に親しまれ、また青森市医師会長、青森県医師会長なども務めました。
長尾医師について、特集記事「青森のお医者様」には「性行共に陸軍々医総監森博士に相似たり」と、森林太郎(鴎外)に似ているといっています。また、「患者に接するに懇切叮嚀」で治療を乞う者が非常に多く、読書と骨董が好きで、とくに達磨の絵が好き、とも。そして「交際円満にして同僚の信用あり」と好意的に評されています。また、桂門会という会を組織して南画を研究し展覧会を開くなど、なかなかの趣味人でもあったようです。
長尾医師は昭和16年(1941)6月に亡くなり、長男直亮と次男久敬が病院を受け継ぎました。しかし、昭和20年7月28日の青森空襲の際、2人は患者と家族を避難させた後に病院を守ろうと残って消火に努めましたが、残念ながら亡くなられたということです。
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