「あおもり歴史トリビア」第451号
2021/04/09 (Fri) 11:00
「あおもり歴史トリビア」第451号(令和3年4月9日配信)
■□■□■□■□■□■
〈青森市メールマガジン〉
■□■□■□■□■□■
こんにちは! 室長の工藤です。
「青森」という名前の町づくりが始まってもう少しで400年になります。この「町づくり」をテーマにこれまでも何度か取り上げてきましたが、今回も新たな謎の発見とその謎解きをしてみようと思います。
町づくりの当初、弘前藩庁は、(1)移住者を促進する、(2)外浜での船の寄港地を新しい町(青森)1か所に限定する、(3)町人となった者には弘前の町人とおなじ特権を与え、月6回開催の市である六斎市を許可する、という町づくりの3つの基本方針を示します。これは寛永3年(1626)4月6日のことです。
これら3つのうち、(1)は第2代藩主信枚から家臣森山弥七郎に下命されています。(2)については、寛永11年3月22日付で第3代藩主信義(吉)から乾四郎兵衛と服部長門守に下命されたことが確認できます。ですから、寛永3年から7年ほどが経っても(2)は達成できてはいなかったということになります。そもそも、寛永3年当時これを担うことになったのは誰で、寛永11年までにどんなことがあったのでしょうか? (2)は湊町青森の町づくりにとって重要な課題なはず…。ところが、これについて語ってくれるものには出会えません。
そこで自分で史料を繰ってみたところ、どうやらこれも(1)とおなじく森山弥七郎に下命されていたようなのです。しかも、そうはいっても青森以外の港への船の着船は止むことはなく、このままでは青森が「衰微」してしまうといった状況に陥ったようです。こうした状況を受けて、信義は寛永11年3月の乾・服部へ下命したという話になるのです。
つまり、青森の町づくりは、その初期段階においてとくに(2)に関して藩庁の思惑通りには進まなかったようなのです。そして、町づくりは信枚のつぎの藩主信義、さらにそのつぎの信政の治世に引き継がれようやく完成します。しかも、信義・信政の時代に、森山が町づくりに関わっていたとする信頼できる史料はありません。
にもかかわらず、一方で青森の町づくりは寛永8年に亡くなった藩主信枚の時代の出来事で、しかも森山弥七郎と二人三脚で推進したかのように「後世の記録」に記され、さらに時が下ると森山は町づくりの「恩人」さえ言われるようになるのです。
このギャップをどう説明するか…。400年を迎えるまでに解決したい新たな謎です。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
登録の変更や利用停止の手続は、次の画面からどうぞ。
○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
○携帯サイト「青森市mini」
http://www.city.aomori.aomori.jp/koho-kocho/keitai-mini/top/mailmagazine.html
-編集・発行---------
企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
--------------------
■□■□■□■□■□■
〈青森市メールマガジン〉
■□■□■□■□■□■
こんにちは! 室長の工藤です。
「青森」という名前の町づくりが始まってもう少しで400年になります。この「町づくり」をテーマにこれまでも何度か取り上げてきましたが、今回も新たな謎の発見とその謎解きをしてみようと思います。
町づくりの当初、弘前藩庁は、(1)移住者を促進する、(2)外浜での船の寄港地を新しい町(青森)1か所に限定する、(3)町人となった者には弘前の町人とおなじ特権を与え、月6回開催の市である六斎市を許可する、という町づくりの3つの基本方針を示します。これは寛永3年(1626)4月6日のことです。
これら3つのうち、(1)は第2代藩主信枚から家臣森山弥七郎に下命されています。(2)については、寛永11年3月22日付で第3代藩主信義(吉)から乾四郎兵衛と服部長門守に下命されたことが確認できます。ですから、寛永3年から7年ほどが経っても(2)は達成できてはいなかったということになります。そもそも、寛永3年当時これを担うことになったのは誰で、寛永11年までにどんなことがあったのでしょうか? (2)は湊町青森の町づくりにとって重要な課題なはず…。ところが、これについて語ってくれるものには出会えません。
そこで自分で史料を繰ってみたところ、どうやらこれも(1)とおなじく森山弥七郎に下命されていたようなのです。しかも、そうはいっても青森以外の港への船の着船は止むことはなく、このままでは青森が「衰微」してしまうといった状況に陥ったようです。こうした状況を受けて、信義は寛永11年3月の乾・服部へ下命したという話になるのです。
つまり、青森の町づくりは、その初期段階においてとくに(2)に関して藩庁の思惑通りには進まなかったようなのです。そして、町づくりは信枚のつぎの藩主信義、さらにそのつぎの信政の治世に引き継がれようやく完成します。しかも、信義・信政の時代に、森山が町づくりに関わっていたとする信頼できる史料はありません。
にもかかわらず、一方で青森の町づくりは寛永8年に亡くなった藩主信枚の時代の出来事で、しかも森山弥七郎と二人三脚で推進したかのように「後世の記録」に記され、さらに時が下ると森山は町づくりの「恩人」さえ言われるようになるのです。
このギャップをどう説明するか…。400年を迎えるまでに解決したい新たな謎です。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
登録の変更や利用停止の手続は、次の画面からどうぞ。
○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
○携帯サイト「青森市mini」
http://www.city.aomori.aomori.jp/koho-kocho/keitai-mini/top/mailmagazine.html
-編集・発行---------
企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
--------------------