「あおもり歴史トリビア」第455号
2021/05/07 (Fri) 11:00
「あおもり歴史トリビア」第455号(令和3年5月7日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは! 室長の工藤です。
「江渡茂吉」という人物をご存知でしょうか? 通説にしたがうと、青森市西部の地名「石江」の「江」は彼の苗字にちなんだ「江渡村」によるといいます。苗字が地名になるほどですから、彼は地域に貢献した人物だとはいえそうです。ちなみに、「石」は石神村で、江渡村と石神村とが合併することで、石江村が誕生します。
さて、弘前藩は明治3年(1870)に青森町と新城村を結ぶ新道(石神野新道)の開削工事に着手します。その際、沿道には人家がなかったので新村の開発が企画されました。この新村開発のために、明治4年4月7日時点で移住を希望した43名の名前と居住地が判明します(『新青森市史』資料編4 P.744-746)。そのなかに、青森町居住の江渡茂吉の名前があります。
江渡茂吉については、種市有隣「江渡村開祖 江渡茂吉翁」(『うとう』25号、1939年)に詳しい記述があります。そのなかに、明治8月12月28日付で江渡茂吉と棟方久吾が連名で記した「石神村ト合併之儀ニ付願」という文書が掲載されています。
この文書によれば、江渡茂吉は青森米町の住居と「営業品呉服」をすべて売り払い移住し、開発に尽力しました。そして、それが認められ苗字の「江渡」を村名とすることを仰せつけられています。仰せつけた主体は不明ですが、明治8年時点でこのことを「難有仕合ニ奉存候(有難き仕合に存じ奉り候)」というのですから、弘前藩庁ではないと理解します。
そして、最も重要なことは、この文書は地租改正に合わせて江渡村が石神村と合併されることに反対し、作成されたものであるということです。
これに対して、第一大区(当時の行政機構で府県の下に大区が置かれました)の長である笹森清俊は、同年12月29日付で江渡の気持ちを汲んで、石神・江渡両村から一文字ずつを取って「石江村」と改称の上合併すべきことを「申上」ています。笹森は誰に「申上」ているのか不明です。県令でしょうか。
さて、地名辞典などでは、石江村の成立は明治8年と記しています。しかし、このふたつの文書の日付から察すると、翌年以降とみるべきでしょう。さらに、明治9年3月に凡例が記された『新撰陸奥国誌』では、江渡村をひとつの村として記しています。これも傍証になると思います。
その後、明治14年の明治天皇の巡幸の際、9月9日に天皇は「江渡茂吉宅御小休」しました(「明治天皇行幸年表」)。現在、中央市民センター石江分館正面左手にある「明治天皇御休跡」碑は、これにちなんだ史跡です。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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-編集・発行---------
企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
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「江渡茂吉」という人物をご存知でしょうか? 通説にしたがうと、青森市西部の地名「石江」の「江」は彼の苗字にちなんだ「江渡村」によるといいます。苗字が地名になるほどですから、彼は地域に貢献した人物だとはいえそうです。ちなみに、「石」は石神村で、江渡村と石神村とが合併することで、石江村が誕生します。
さて、弘前藩は明治3年(1870)に青森町と新城村を結ぶ新道(石神野新道)の開削工事に着手します。その際、沿道には人家がなかったので新村の開発が企画されました。この新村開発のために、明治4年4月7日時点で移住を希望した43名の名前と居住地が判明します(『新青森市史』資料編4 P.744-746)。そのなかに、青森町居住の江渡茂吉の名前があります。
江渡茂吉については、種市有隣「江渡村開祖 江渡茂吉翁」(『うとう』25号、1939年)に詳しい記述があります。そのなかに、明治8月12月28日付で江渡茂吉と棟方久吾が連名で記した「石神村ト合併之儀ニ付願」という文書が掲載されています。
この文書によれば、江渡茂吉は青森米町の住居と「営業品呉服」をすべて売り払い移住し、開発に尽力しました。そして、それが認められ苗字の「江渡」を村名とすることを仰せつけられています。仰せつけた主体は不明ですが、明治8年時点でこのことを「難有仕合ニ奉存候(有難き仕合に存じ奉り候)」というのですから、弘前藩庁ではないと理解します。
そして、最も重要なことは、この文書は地租改正に合わせて江渡村が石神村と合併されることに反対し、作成されたものであるということです。
これに対して、第一大区(当時の行政機構で府県の下に大区が置かれました)の長である笹森清俊は、同年12月29日付で江渡の気持ちを汲んで、石神・江渡両村から一文字ずつを取って「石江村」と改称の上合併すべきことを「申上」ています。笹森は誰に「申上」ているのか不明です。県令でしょうか。
さて、地名辞典などでは、石江村の成立は明治8年と記しています。しかし、このふたつの文書の日付から察すると、翌年以降とみるべきでしょう。さらに、明治9年3月に凡例が記された『新撰陸奥国誌』では、江渡村をひとつの村として記しています。これも傍証になると思います。
その後、明治14年の明治天皇の巡幸の際、9月9日に天皇は「江渡茂吉宅御小休」しました(「明治天皇行幸年表」)。現在、中央市民センター石江分館正面左手にある「明治天皇御休跡」碑は、これにちなんだ史跡です。
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