「あおもり歴史トリビア」第508号(令和4年6月10日配信)
2022/06/10 (Fri) 14:00
「あおもり歴史トリビア」第508号(令和4年6月10日配信)
■□■□■□■□■□■
〈青森市メールマガジン〉
■□■□■□■□■□■
こんにちは! 室長の工藤です。
「『合浦公園』という名称はいつからか?」という問いに対して、『新青森市史』通史編第3巻近代は「明治28年に、…(中略)…公園の名称を青森公園から合浦公園と改めた」と答えてくれます。
その根拠は、明治28年(1895)12月21日付で青森町が県に対して提出した、公園地が青森町の管理となったことから、園内に掲示する「禁止事項(牛馬を園内に牽き入れてはいけないなど)」の許可を求める文書中の「今般合浦公園ト改称シ」に求めることができます。
一方、青森町が県に対して「公園改称之義上申」という文書でもって「自今以後歴史上ノ旧名ヲ存し合浦公園ト改称致し候条」としたのは翌明治29年3月14日のことです。
つまり、公園を管理する青森町では明治28年12月21日までに名称を青森公園から合浦公園と改め、それを公式に県に届けたのが翌年3月のことと理解できそうです。ですから、「『合浦公園』という名称はいつからか?」という問いの答えは、捉え方・考え方によってふたつの答えがあるのです。
ところで、明治26年の『合浦之珠 青森案内』という冊子に、合浦公園の創設者水原衛作の記念碑(明治23年建碑)の碑文をはじめ園内を紹介する記事が載っています。その記事の見出しは「合浦公園地」…青森町が公園管理を手掛けることになる前にすでに「合浦公園」という名称は使われていたということになります。
『東奥日報』の紙面を繰ってみると、明治22年5月17日付の紙面に浜町の開導小学校(4か寺が檀家の子弟のために明治21年に創設)の運動会が「合浦公園」で開催されたと伝えています。この合浦公園が現在の合浦公園に繋がるかは不明です。ただ、合浦公園と呼ばれた公園が青森町にあったとはいえるでしょう。
また、明治20年頃から園内で招魂祭が実施されていましたが、明治23年9月3日の招魂祭は「合浦公園」もしくは「造道村青森公園地内」で執行されたとあります。明らかに現在の合浦公園に通じる事例です。
もっとも、私が拾った明治22~23年の事例は「青森公園(地)」の事例が圧倒的に多いです。ところが、明治24年以降になるとむしろ「合浦公園」の事例の方が多くなります。もちろん、網羅的・意識的に事例を収集していた訳ではないので、この傾向はひっくり返る可能性はあります。しかし、明治28年以前に青森公園を「合浦公園」と新聞が報じる事例が少なからずあったという事実があったのは間違いありません。
つまり、合浦公園という名称は、青森町が公園を管理する以前から通称されていたものを、明治28~29年にかけて町が正式名称として採用したのです。
「『合浦公園』という名称はいつからか?」…意外と奥深い問いかけだったのです。
※6月3日配信の「あおもり歴史トリビア」第507号で蓬田村の玉松台をご紹介しましたが、文中の「日清戦争」は「日露戦争」の誤りです。訂正してお詫び申し上げます。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
登録の変更や利用停止の手続は、次の画面からどうぞ。
○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
○携帯サイト「青森市mini」
http://www.city.aomori.aomori.jp/koho-kocho/keitai-mini/top/mailmagazine.html
-編集・発行---------
企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
--------------------
■□■□■□■□■□■
〈青森市メールマガジン〉
■□■□■□■□■□■
こんにちは! 室長の工藤です。
「『合浦公園』という名称はいつからか?」という問いに対して、『新青森市史』通史編第3巻近代は「明治28年に、…(中略)…公園の名称を青森公園から合浦公園と改めた」と答えてくれます。
その根拠は、明治28年(1895)12月21日付で青森町が県に対して提出した、公園地が青森町の管理となったことから、園内に掲示する「禁止事項(牛馬を園内に牽き入れてはいけないなど)」の許可を求める文書中の「今般合浦公園ト改称シ」に求めることができます。
一方、青森町が県に対して「公園改称之義上申」という文書でもって「自今以後歴史上ノ旧名ヲ存し合浦公園ト改称致し候条」としたのは翌明治29年3月14日のことです。
つまり、公園を管理する青森町では明治28年12月21日までに名称を青森公園から合浦公園と改め、それを公式に県に届けたのが翌年3月のことと理解できそうです。ですから、「『合浦公園』という名称はいつからか?」という問いの答えは、捉え方・考え方によってふたつの答えがあるのです。
ところで、明治26年の『合浦之珠 青森案内』という冊子に、合浦公園の創設者水原衛作の記念碑(明治23年建碑)の碑文をはじめ園内を紹介する記事が載っています。その記事の見出しは「合浦公園地」…青森町が公園管理を手掛けることになる前にすでに「合浦公園」という名称は使われていたということになります。
『東奥日報』の紙面を繰ってみると、明治22年5月17日付の紙面に浜町の開導小学校(4か寺が檀家の子弟のために明治21年に創設)の運動会が「合浦公園」で開催されたと伝えています。この合浦公園が現在の合浦公園に繋がるかは不明です。ただ、合浦公園と呼ばれた公園が青森町にあったとはいえるでしょう。
また、明治20年頃から園内で招魂祭が実施されていましたが、明治23年9月3日の招魂祭は「合浦公園」もしくは「造道村青森公園地内」で執行されたとあります。明らかに現在の合浦公園に通じる事例です。
もっとも、私が拾った明治22~23年の事例は「青森公園(地)」の事例が圧倒的に多いです。ところが、明治24年以降になるとむしろ「合浦公園」の事例の方が多くなります。もちろん、網羅的・意識的に事例を収集していた訳ではないので、この傾向はひっくり返る可能性はあります。しかし、明治28年以前に青森公園を「合浦公園」と新聞が報じる事例が少なからずあったという事実があったのは間違いありません。
つまり、合浦公園という名称は、青森町が公園を管理する以前から通称されていたものを、明治28~29年にかけて町が正式名称として採用したのです。
「『合浦公園』という名称はいつからか?」…意外と奥深い問いかけだったのです。
※6月3日配信の「あおもり歴史トリビア」第507号で蓬田村の玉松台をご紹介しましたが、文中の「日清戦争」は「日露戦争」の誤りです。訂正してお詫び申し上げます。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
登録の変更や利用停止の手続は、次の画面からどうぞ。
○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
○携帯サイト「青森市mini」
http://www.city.aomori.aomori.jp/koho-kocho/keitai-mini/top/mailmagazine.html
-編集・発行---------
企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
--------------------