「あおもり歴史トリビア」第518号(令和4年8月19日配信)
2022/08/19 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第518号(令和4年8月19日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは。歴史資料室の村上亜弥です。8月19日は「俳句の日」です。そこで今回は俳句に関する話題をお届けします。
栄町の成田山青森寺に「高野素十・中田みづほ・高浜虚子・浜口今夜・増田手古奈合同句碑」があります。
高浜虚子(たかはま・きょし 1874-1959)といえば、俳句雑誌『ホトトギス』を主宰したことで知られる俳人ですね。増田手古奈(ますだ・てこな 1897-1993)は蔵館村(現大鰐町)出身で、俳句雑誌『十和田』を主宰した青森県の俳壇を代表する人物です。
高野素十(たかの・すじゅう 1893-1976)、中田みづほ(1893-1975)、浜口今夜(はまぐち・こんや 1893-1943)の3人は『ホトトギス』の同人ですが、青森県出身者ではありません。では、なぜこの5人の句がひとつの碑に刻まれているのでしょうか。
調べてみると、高野・中田・浜口の3人には共通点がありました。それは、同時期に東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)で医学を学び、のちに新潟医科大学(現新潟大学医学部)の教員となっていることです。教員を務めながら『ホトトギス』に投句していた3人は「越後ホトトギスの三羽烏」と呼ばれました。
一方、増田は大正7年(1918)に東京帝国大学医科大学へ入学しており、高野・中田・浜口にとっては後輩にあたります。大正12年には高野や中田が参加する東大俳句会に入り、会の指導者である高浜から俳句を学ぶようになりました。つまり、高浜以外の4人には俳句だけでなく東京帝国大学医科大学での繋がりもあったのです。
『句集 増田手古奈』(1997年)によると、5人の合同句碑は昭和52年(1977)8月21日に行われた高野の追悼吟行句会を記念して建立されました。建立者は青森市の医師で俳人でもある村上三良(むらかみ・さんりょう 1911-2004)です。この碑は当初、村上邸にありましたが、のちに成田山青森寺へ移設されました。
村上は新潟医科大学出身で、在学中に高野・中田・浜口から俳句を学び、『ホトトギス』の同人となっています。また、村上は増田といとこの間柄であり、増田が主宰する俳句雑誌『十和田』の編集発行を支援していました。合同句碑からは村上の俳壇の先輩たちに対する思いが感じられます。
※今回の内容は『県立図書館で調べよう 新潟県の俳句』(2020年 新潟県立図書館)、『蒲原宏講演会「俳句の里-亀田郷と俳人たち-」記録集』(2013年 新潟市立亀田図書館)、青森県近代文学館ホームページなどを参考にしました。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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青森市中央1-22-5
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高浜虚子(たかはま・きょし 1874-1959)といえば、俳句雑誌『ホトトギス』を主宰したことで知られる俳人ですね。増田手古奈(ますだ・てこな 1897-1993)は蔵館村(現大鰐町)出身で、俳句雑誌『十和田』を主宰した青森県の俳壇を代表する人物です。
高野素十(たかの・すじゅう 1893-1976)、中田みづほ(1893-1975)、浜口今夜(はまぐち・こんや 1893-1943)の3人は『ホトトギス』の同人ですが、青森県出身者ではありません。では、なぜこの5人の句がひとつの碑に刻まれているのでしょうか。
調べてみると、高野・中田・浜口の3人には共通点がありました。それは、同時期に東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)で医学を学び、のちに新潟医科大学(現新潟大学医学部)の教員となっていることです。教員を務めながら『ホトトギス』に投句していた3人は「越後ホトトギスの三羽烏」と呼ばれました。
一方、増田は大正7年(1918)に東京帝国大学医科大学へ入学しており、高野・中田・浜口にとっては後輩にあたります。大正12年には高野や中田が参加する東大俳句会に入り、会の指導者である高浜から俳句を学ぶようになりました。つまり、高浜以外の4人には俳句だけでなく東京帝国大学医科大学での繋がりもあったのです。
『句集 増田手古奈』(1997年)によると、5人の合同句碑は昭和52年(1977)8月21日に行われた高野の追悼吟行句会を記念して建立されました。建立者は青森市の医師で俳人でもある村上三良(むらかみ・さんりょう 1911-2004)です。この碑は当初、村上邸にありましたが、のちに成田山青森寺へ移設されました。
村上は新潟医科大学出身で、在学中に高野・中田・浜口から俳句を学び、『ホトトギス』の同人となっています。また、村上は増田といとこの間柄であり、増田が主宰する俳句雑誌『十和田』の編集発行を支援していました。合同句碑からは村上の俳壇の先輩たちに対する思いが感じられます。
※今回の内容は『県立図書館で調べよう 新潟県の俳句』(2020年 新潟県立図書館)、『蒲原宏講演会「俳句の里-亀田郷と俳人たち-」記録集』(2013年 新潟市立亀田図書館)、青森県近代文学館ホームページなどを参考にしました。
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