「あおもり歴史トリビア」第523号(令和4年9月30日配信)
2022/09/30 (Fri) 15:00
「あおもり歴史トリビア」第523号(令和4年9月30日配信)
■□■□■□■□■□■
〈青森市メールマガジン〉
■□■□■□■□■□■
こんにちは。歴史資料室の村上真美です。
先日、青森市にあるモヤヒルズのコスモス畑に行ってきました!ピンク色のコスモスは優しい気持ちに、オレンジ色のコスモスはポジティブな気分にさせてくれます。花がもつ色彩効果を改めて感じることができました。ご興味がある方は、ぜひ雲谷高原へ足を運んでみてはいかかでしょうか。(詳しい情報はモヤヒルズのHPをご覧ください。)
そこで今回は、「花」をテーマに洋画家・橋本花(1905-1983)に関する話題をお届けします。
橋本は、明治38年(1905)青森市浦町で生まれました。幼少期から夢中になって絵を描いていたといいます。大正13年(1924)に女子美術学校(現女子美術大学)へ入学し、翌年には帝展(帝国美術院展覧会)に出品した作品「風景」が入選します。この絵は、青森市松原の自宅の畑に咲くひまわりを写生したものだったそうです。
当時最も権威のあった帝展で入選することは芸術家志望者にとって、名を挙げる最短コースであったといいます。学校で唯一の入選者となった橋本は、20歳にしてその才能を認められることになります。
この初入選以降も帝展への出品を続け、昭和7年(1932)までに8回の入選をします。さらに昭和7年から12年までの間に3回の特選を受賞しました。また、新文展や日展などにも出品するなど、精力的な活動を続けていきます。
こうした活躍の一方、昭和4年に岩手県出身の橋本八百二(はしもと・やおじ 1903-1979)と結婚します。八百二は、昭和初期から帝展を中心に活躍した洋画家です。
昭和54年に八百二が亡くなると、橋本は居住地を青森市に移します。筒井に建築したアトリエでは、牡丹やバラなど色鮮やかな花々の作品を手掛けました。
橋本は、昭和57年1月13日付の『東奥日報』で「死ぬまで描いてゆくしかない。画家は最後まで描くしかない」と語っています。昭和58年に78歳で亡くなるまで、絵筆を離すことはありませんでした。彼女の最後の作品は「津軽風景」です。津軽の野に咲く花々が描かれています。
また、没後10年の平成5年には、青森県立郷土館で回顧展「青森県女流洋画家の先駆者 橋本花の世界展」が開かれ、多くの観客が訪れたとのことです。
※今回の内容は、中畑長四郎『津軽の美術史』(1991年 北方新社)、『青森県女流洋画家の先駆者 橋本花の世界展』(1993年 青森県立郷土館)などを参考にしました。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
登録の変更や利用停止の手続は、次の画面からどうぞ。
○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
○携帯サイト「青森市mini」
http://www.city.aomori.aomori.jp/koho-kocho/keitai-mini/top/mailmagazine.html
-編集・発行---------
企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
--------------------
■□■□■□■□■□■
〈青森市メールマガジン〉
■□■□■□■□■□■
こんにちは。歴史資料室の村上真美です。
先日、青森市にあるモヤヒルズのコスモス畑に行ってきました!ピンク色のコスモスは優しい気持ちに、オレンジ色のコスモスはポジティブな気分にさせてくれます。花がもつ色彩効果を改めて感じることができました。ご興味がある方は、ぜひ雲谷高原へ足を運んでみてはいかかでしょうか。(詳しい情報はモヤヒルズのHPをご覧ください。)
そこで今回は、「花」をテーマに洋画家・橋本花(1905-1983)に関する話題をお届けします。
橋本は、明治38年(1905)青森市浦町で生まれました。幼少期から夢中になって絵を描いていたといいます。大正13年(1924)に女子美術学校(現女子美術大学)へ入学し、翌年には帝展(帝国美術院展覧会)に出品した作品「風景」が入選します。この絵は、青森市松原の自宅の畑に咲くひまわりを写生したものだったそうです。
当時最も権威のあった帝展で入選することは芸術家志望者にとって、名を挙げる最短コースであったといいます。学校で唯一の入選者となった橋本は、20歳にしてその才能を認められることになります。
この初入選以降も帝展への出品を続け、昭和7年(1932)までに8回の入選をします。さらに昭和7年から12年までの間に3回の特選を受賞しました。また、新文展や日展などにも出品するなど、精力的な活動を続けていきます。
こうした活躍の一方、昭和4年に岩手県出身の橋本八百二(はしもと・やおじ 1903-1979)と結婚します。八百二は、昭和初期から帝展を中心に活躍した洋画家です。
昭和54年に八百二が亡くなると、橋本は居住地を青森市に移します。筒井に建築したアトリエでは、牡丹やバラなど色鮮やかな花々の作品を手掛けました。
橋本は、昭和57年1月13日付の『東奥日報』で「死ぬまで描いてゆくしかない。画家は最後まで描くしかない」と語っています。昭和58年に78歳で亡くなるまで、絵筆を離すことはありませんでした。彼女の最後の作品は「津軽風景」です。津軽の野に咲く花々が描かれています。
また、没後10年の平成5年には、青森県立郷土館で回顧展「青森県女流洋画家の先駆者 橋本花の世界展」が開かれ、多くの観客が訪れたとのことです。
※今回の内容は、中畑長四郎『津軽の美術史』(1991年 北方新社)、『青森県女流洋画家の先駆者 橋本花の世界展』(1993年 青森県立郷土館)などを参考にしました。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
登録の変更や利用停止の手続は、次の画面からどうぞ。
○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
○携帯サイト「青森市mini」
http://www.city.aomori.aomori.jp/koho-kocho/keitai-mini/top/mailmagazine.html
-編集・発行---------
企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
--------------------