「あおもり歴史トリビア」第524号(令和4年10月7日配信)
2022/10/07 (Fri) 12:10
「あおもり歴史トリビア」第524号(令和4年10月7日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは! 室長の工藤です。
歴史資料室では10月13日から「学び舎の思い出―学校旧跡めぐり2」という展示を市民図書館内で予定しており、目下その準備に大童といったところです。
この展示で私が担当したのは、昭和26年(1951)に設立され、同53年に廃止となった青森県立工業高等学校後潟分校の部分です。
展示の内容は、今年の春に東京青森県人会の会誌『東京と青森』No.648に書いた「農業地域の高等教育機関~青森県立工業高校後潟分校~」(「〈青森県史〉の窓」199)をもとに構成したもので、
(1)独立校舎の建設(設置当初は後潟中学校に併設)、(2)農業後継者を育成する教育機関としての分校、の2つのテーマを扱っています。
このほかにも、スペースの関係で紹介できなかった資料がたくさんあり、そのなかのひとつに青森県教育委員会の『教育広報』28号(1953年8月)に収録された、「定時制の生活記録と事例集」のなかにあるひとつの投稿原稿があります。
その原稿の投稿者は、後潟分校の設立当初の状況を知る教職員であるとみられます。
それによると、設立当時は「定時制に対する一般地元民の熱意はさほどなく」しかも設立の翌月には国鉄津軽線の青森・蟹田間が開通したため、高校への進学を希望する生徒たちの目は青森市内の高校に向いていたといいます。
そのため、分校に進学する者は「家庭では労働力の主力」である「経済力のない青年達」が多く、入学者の年齢も高く30歳近い者も数人いたといいます。
しかし、分校に入学した生徒は向学心に燃え、しかも学校を存続させるため地元の理解を得ようと努力を重ねます。運動場やテニスコートの整備は生徒自らが行い、また校外でも「悪路及び悪橋の改修」を行い教育長などから感謝状を授与されました。さらに、「湿地不毛田を開拓」して実習田にして「相当の成績をあげ村民の注目を集めた」ともいいます。
こうした生徒たちの活動を投稿者は「定時制設立一年にして地元村民をゆさぶり」、設置主体の蓬田村・後潟村・奥内村も「通学用自転車に対する免税」「高校予算の大幅増額」などを決めたと評価しています。
その後、昭和40年代に顕在化する独立校舎建設運動は、地元の人々の働きかけによって実現します。それは、設立当初の生徒たちの努力が実を結び、地元の人々との間で信頼関係を築くことができたという分校の「あゆみ」があったからなのでしょう。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
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このほかにも、スペースの関係で紹介できなかった資料がたくさんあり、そのなかのひとつに青森県教育委員会の『教育広報』28号(1953年8月)に収録された、「定時制の生活記録と事例集」のなかにあるひとつの投稿原稿があります。
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それによると、設立当時は「定時制に対する一般地元民の熱意はさほどなく」しかも設立の翌月には国鉄津軽線の青森・蟹田間が開通したため、高校への進学を希望する生徒たちの目は青森市内の高校に向いていたといいます。
そのため、分校に進学する者は「家庭では労働力の主力」である「経済力のない青年達」が多く、入学者の年齢も高く30歳近い者も数人いたといいます。
しかし、分校に入学した生徒は向学心に燃え、しかも学校を存続させるため地元の理解を得ようと努力を重ねます。運動場やテニスコートの整備は生徒自らが行い、また校外でも「悪路及び悪橋の改修」を行い教育長などから感謝状を授与されました。さらに、「湿地不毛田を開拓」して実習田にして「相当の成績をあげ村民の注目を集めた」ともいいます。
こうした生徒たちの活動を投稿者は「定時制設立一年にして地元村民をゆさぶり」、設置主体の蓬田村・後潟村・奥内村も「通学用自転車に対する免税」「高校予算の大幅増額」などを決めたと評価しています。
その後、昭和40年代に顕在化する独立校舎建設運動は、地元の人々の働きかけによって実現します。それは、設立当初の生徒たちの努力が実を結び、地元の人々との間で信頼関係を築くことができたという分校の「あゆみ」があったからなのでしょう。
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