「あおもり歴史トリビア」第529号(令和4年11月11日配信)
2022/11/11 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第529号(令和4年11月11日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは。歴史資料室の村上亜弥です。
現在、歴史資料室では企画展示「学び舎の思い出―学校旧跡めぐり2」を行っています。この展示では学校に関する石碑をいくつか紹介しています。今回はその中から荒川小学校の「創立五十年記念碑」(大正12年〈1923〉建立)に関する話題をお届けします。
碑文によると、石碑の文字を揮毫したのは青森県師範学校教員の谷山成章(1859-1939)です。この人物については『青森県人名事典』(2002年 東奥日報社)に項目がなく、経歴がはっきりしませんでした。そこで、展示にあたって調べたところ、さまざまな職業を経験した人物であることがわかりました。
谷山は弘前出身で、東奥義塾を卒業後、明治12年(1879)青森県師範学校に入学しました。卒業後は小学校教員を務め、明治20年代には収税官吏(税務署職員)となっています。五所川原税務署や青森税務管理局に勤務した後、長井税務署(現山形県長井市)や田名部税務署(現むつ市)で署長を務めました。
さらに、大正2年(1913)には川内村(現むつ市川内町)の第3代村長に就任し、大正6年10月の町制施行後は初代町長となり、大正10年まで務めています。
町長を退任したあとは大正14年まで母校・青森県師範学校の教員を務めました。担当教科は習字でした。谷山が『青森県師範学校六十周年記念誌』(1937年)に寄せた「追憶三題」という文章では、教員時代を振り返り、鶴岡重治校長が全校生徒マラソンに参加して126着になったというエピソードを紹介しています。
その後は兵庫県姫路市へ移って新聞事業に携わり、昭和14年(1939)4月9日に亡くなりました(昭和14年版『東奥年鑑』1939年 東奥日報社)。但し、新聞事業の詳細についてはわかりませんでした。
さて、谷山について『東奥人名録』(1913年 青森交詢社)には「漢文を能くし又書に巧みなり春窓と号す」と記されており、昭和4年版『東奥年鑑』(1928年 東奥日報社)には「書は其の詩と共に珍重」されていたとあります。
国立国会図書館デジタルコレクションをみてみると、例えば佐藤天外編『名士と風流』(1900年 盛陽堂)には谷山の漢詩が、上田維暁『内国旅行 日本名所図絵』第五巻(1889年 青木嵩山堂)には谷山の書が掲載されています。また、小山内時雄『近代諸作家追跡の基礎』(1981年 津軽書房)によると、明治21年に青森県内で発行された『田舎新誌』や『学友通信』という雑誌にも作品を発表しています。
谷山は学校教員や税務署職員、村長・町長など多様な仕事に携わる一方、書家・漢詩人としても積極的に活動していたのです。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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碑文によると、石碑の文字を揮毫したのは青森県師範学校教員の谷山成章(1859-1939)です。この人物については『青森県人名事典』(2002年 東奥日報社)に項目がなく、経歴がはっきりしませんでした。そこで、展示にあたって調べたところ、さまざまな職業を経験した人物であることがわかりました。
谷山は弘前出身で、東奥義塾を卒業後、明治12年(1879)青森県師範学校に入学しました。卒業後は小学校教員を務め、明治20年代には収税官吏(税務署職員)となっています。五所川原税務署や青森税務管理局に勤務した後、長井税務署(現山形県長井市)や田名部税務署(現むつ市)で署長を務めました。
さらに、大正2年(1913)には川内村(現むつ市川内町)の第3代村長に就任し、大正6年10月の町制施行後は初代町長となり、大正10年まで務めています。
町長を退任したあとは大正14年まで母校・青森県師範学校の教員を務めました。担当教科は習字でした。谷山が『青森県師範学校六十周年記念誌』(1937年)に寄せた「追憶三題」という文章では、教員時代を振り返り、鶴岡重治校長が全校生徒マラソンに参加して126着になったというエピソードを紹介しています。
その後は兵庫県姫路市へ移って新聞事業に携わり、昭和14年(1939)4月9日に亡くなりました(昭和14年版『東奥年鑑』1939年 東奥日報社)。但し、新聞事業の詳細についてはわかりませんでした。
さて、谷山について『東奥人名録』(1913年 青森交詢社)には「漢文を能くし又書に巧みなり春窓と号す」と記されており、昭和4年版『東奥年鑑』(1928年 東奥日報社)には「書は其の詩と共に珍重」されていたとあります。
国立国会図書館デジタルコレクションをみてみると、例えば佐藤天外編『名士と風流』(1900年 盛陽堂)には谷山の漢詩が、上田維暁『内国旅行 日本名所図絵』第五巻(1889年 青木嵩山堂)には谷山の書が掲載されています。また、小山内時雄『近代諸作家追跡の基礎』(1981年 津軽書房)によると、明治21年に青森県内で発行された『田舎新誌』や『学友通信』という雑誌にも作品を発表しています。
谷山は学校教員や税務署職員、村長・町長など多様な仕事に携わる一方、書家・漢詩人としても積極的に活動していたのです。
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