「あおもり歴史トリビア」第532号(令和4年12月2日配信)
2022/12/02 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第532号(令和4年12月2日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは! 室長の工藤です。
もう5年半以上も前のことですが、このメールマガジンで合浦公園内にあるふたりの書家、小山内暉山(おさない・きざん)と本間覃山(ほんま・たんざん)の石碑を紹介したことがありました(2017年4月21日配信No.255)。
師弟関係にあったふたりの石碑は、園内ダイシンベースボールスタジアム(市営野球場)の北側にある機関車の西側に、ふたつ並んで建っています。小山内暉山の碑の碑文は弟子である本間の手によるものです。
ところで、本間覃山は明治42年(1909)4月2日に亡くなり、その後門人等により合浦公園に「彰徳碑」が建てられ、同44年11月5日に落成式が執り行われました。
建碑にあたっては発起人会が組織され、そこでは「暉山翁の碑石は覃山翁碑石より高くする事」(明治44年1月29日付『東奥日報』)、すなわち暉山の石碑はすでに建立されているので(明治29年建立)、覃山の碑はそれより高さを低くすることが取り決められています。
師弟関係を配慮した…ということでしょうか。覃山の碑は暉山の碑よりも低いかどうか、確認してみる必要がありそうです。
さらに書家としての本間覃山と石碑の関係についていいますと、明治39年6月20日に建立となった廣田神社の社号標、そしておなじく明治39年12月10日建立の大野稲荷神社の社号標はともに彼の揮毫によるものです。
とくに、稲荷神社の社号標の裏面には「明治三十七八年戦役紀念標石」と刻まれ、日露戦争の戦勝記念として建てられたことが分かります。
そしてもうひとつ、日露戦争絡みでいうと昭和の初めに今純三が描いた「善知鳥神社境内鳥観図」に「日露役忠魂碑」なる碑が拝殿南側にあります。一方、明治39年10月3日付『東奥日報』によると、前日10月2日に新安方町の有志が同寺境内に建てたと目される「(日露戦争)凱旋紀年碑」の除幕式が執り行われています。
さて、ふたつの石碑はおなじなのか、それとも違うのでしょうか?
その議論はひとまず措き、「凱旋紀年碑」に注目すると、碑文はこの年の序文をもつ『青森市沿革史』(青森市が発行した初めての「青森市史」)の編者葛西音弥(かさい・おとや)が記し、揮毫は本間覃山であるといいます。本間覃山はこの年3つの石碑に揮毫していたのです。
なお、現在この石碑は消息不明となっています。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
登録の変更や利用停止の手続は、次の画面からどうぞ。
○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
○携帯サイト「青森市mini」
http://www.city.aomori.aomori.jp/koho-kocho/keitai-mini/top/mailmagazine.html
-編集・発行---------
企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
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もう5年半以上も前のことですが、このメールマガジンで合浦公園内にあるふたりの書家、小山内暉山(おさない・きざん)と本間覃山(ほんま・たんざん)の石碑を紹介したことがありました(2017年4月21日配信No.255)。
師弟関係にあったふたりの石碑は、園内ダイシンベースボールスタジアム(市営野球場)の北側にある機関車の西側に、ふたつ並んで建っています。小山内暉山の碑の碑文は弟子である本間の手によるものです。
ところで、本間覃山は明治42年(1909)4月2日に亡くなり、その後門人等により合浦公園に「彰徳碑」が建てられ、同44年11月5日に落成式が執り行われました。
建碑にあたっては発起人会が組織され、そこでは「暉山翁の碑石は覃山翁碑石より高くする事」(明治44年1月29日付『東奥日報』)、すなわち暉山の石碑はすでに建立されているので(明治29年建立)、覃山の碑はそれより高さを低くすることが取り決められています。
師弟関係を配慮した…ということでしょうか。覃山の碑は暉山の碑よりも低いかどうか、確認してみる必要がありそうです。
さらに書家としての本間覃山と石碑の関係についていいますと、明治39年6月20日に建立となった廣田神社の社号標、そしておなじく明治39年12月10日建立の大野稲荷神社の社号標はともに彼の揮毫によるものです。
とくに、稲荷神社の社号標の裏面には「明治三十七八年戦役紀念標石」と刻まれ、日露戦争の戦勝記念として建てられたことが分かります。
そしてもうひとつ、日露戦争絡みでいうと昭和の初めに今純三が描いた「善知鳥神社境内鳥観図」に「日露役忠魂碑」なる碑が拝殿南側にあります。一方、明治39年10月3日付『東奥日報』によると、前日10月2日に新安方町の有志が同寺境内に建てたと目される「(日露戦争)凱旋紀年碑」の除幕式が執り行われています。
さて、ふたつの石碑はおなじなのか、それとも違うのでしょうか?
その議論はひとまず措き、「凱旋紀年碑」に注目すると、碑文はこの年の序文をもつ『青森市沿革史』(青森市が発行した初めての「青森市史」)の編者葛西音弥(かさい・おとや)が記し、揮毫は本間覃山であるといいます。本間覃山はこの年3つの石碑に揮毫していたのです。
なお、現在この石碑は消息不明となっています。
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