「あおもり歴史トリビア」第533号(令和4年12月9日配信)
2022/12/09 (Fri) 12:00
「あおもり歴史トリビア」第533号(令和4年12月9日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは。歴史資料室の村上亜弥です。今回は歴史資料室の企画展示「学び舎の思い出―学校旧跡めぐり2」(1月10日(火)まで開催)に関する話題をお届けします。
7階エントランスのガラスケースには佃小学校校歌の楽譜を展示しています。佃小学校は浪打小学校の二部授業(児童・生徒を午前・午後など複数回に分けて授業を行うこと)を解消するため、昭和32年(1957)4月に新設されました。
校名については、昭和31年10月に校舎の建設が始まった段階での仮称は「緑小学校」でしたが、翌年1月に「佃小学校」と決定しました。
開校時には校舎が未完成であったため、入学式は浪打小学校の講堂を借りて行いました。式の中で初代校長の成田繁七(なりた・しげしち)が新入生に「みなさんはどこの学校にはいりましたか」と尋ねると「ハーイ浪打小学校デース」という答えが返ってきて、保護者は苦笑したそうです。
その後、成田が「みなさんはもう佃小学校の子供達なんですよ」と話すと、新入生はようやく納得したようすだったといいます(『まほろば』1997年 青森市立佃小学校創立40周年記念事業実行委員会)。
また、開校当初の佃小学校には校歌もありませんでした。昭和32年の2学期、教頭や6年生の担任教師たちは校長の成田に対して第1回卒業生を送るためにぜひ校歌がほしいと申し出ました。教師たちが成田に作詞を依頼すると、成田は音楽主任の斎藤善太郎が作曲することを条件として依頼を受けました。そうして誕生したのが「けだかい甲田の ふもとに広く」という言葉で始まる校歌です。
作詞を手がけた成田は完成した校歌について「斎藤善太郎音楽主任の作曲の妙によって、ことばに輝きが増し、子どもたちにも父兄にも歓ばれた校歌の誕生をみた幸せは、今なお忘れられない思い出である」と語っています(成田繁七「新北の文脈34」『北の街』第25巻第8号、1986年)。
さて、展示している校歌の楽譜を見ると、「作詞 成田繁七」の下に「補作 加藤寿綿」と書かれています。加藤寿綿(かとう・としつら)は当時の青森市教育長であり、成田が浦町尋常高等小学校(現浦町小学校)で教員を務めていた頃の同僚です。
「あおもり歴史トリビア」第525号では加藤が野沢小学校校歌の歌詞を制作した際、草稿を記したノートに「成田繁七氏に見て貰う」というメモがあったことをご紹介しましたね。
また、野沢小学校校歌の作曲者は佃小学校校歌を作曲した斎藤です。つまり、この2つの校歌は成田・加藤・斎藤の3人が協力して作り上げたものだったのです。
※現在、7階エントランスの展示は「障がい者週間特別展示」開催に伴い休止しています。12月15日(木)に再開しますので、ぜひご覧ください。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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-編集・発行---------
企画部広報広聴課
青森市中央1-22-5
TEL:017-734-5106
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7階エントランスのガラスケースには佃小学校校歌の楽譜を展示しています。佃小学校は浪打小学校の二部授業(児童・生徒を午前・午後など複数回に分けて授業を行うこと)を解消するため、昭和32年(1957)4月に新設されました。
校名については、昭和31年10月に校舎の建設が始まった段階での仮称は「緑小学校」でしたが、翌年1月に「佃小学校」と決定しました。
開校時には校舎が未完成であったため、入学式は浪打小学校の講堂を借りて行いました。式の中で初代校長の成田繁七(なりた・しげしち)が新入生に「みなさんはどこの学校にはいりましたか」と尋ねると「ハーイ浪打小学校デース」という答えが返ってきて、保護者は苦笑したそうです。
その後、成田が「みなさんはもう佃小学校の子供達なんですよ」と話すと、新入生はようやく納得したようすだったといいます(『まほろば』1997年 青森市立佃小学校創立40周年記念事業実行委員会)。
また、開校当初の佃小学校には校歌もありませんでした。昭和32年の2学期、教頭や6年生の担任教師たちは校長の成田に対して第1回卒業生を送るためにぜひ校歌がほしいと申し出ました。教師たちが成田に作詞を依頼すると、成田は音楽主任の斎藤善太郎が作曲することを条件として依頼を受けました。そうして誕生したのが「けだかい甲田の ふもとに広く」という言葉で始まる校歌です。
作詞を手がけた成田は完成した校歌について「斎藤善太郎音楽主任の作曲の妙によって、ことばに輝きが増し、子どもたちにも父兄にも歓ばれた校歌の誕生をみた幸せは、今なお忘れられない思い出である」と語っています(成田繁七「新北の文脈34」『北の街』第25巻第8号、1986年)。
さて、展示している校歌の楽譜を見ると、「作詞 成田繁七」の下に「補作 加藤寿綿」と書かれています。加藤寿綿(かとう・としつら)は当時の青森市教育長であり、成田が浦町尋常高等小学校(現浦町小学校)で教員を務めていた頃の同僚です。
「あおもり歴史トリビア」第525号では加藤が野沢小学校校歌の歌詞を制作した際、草稿を記したノートに「成田繁七氏に見て貰う」というメモがあったことをご紹介しましたね。
また、野沢小学校校歌の作曲者は佃小学校校歌を作曲した斎藤です。つまり、この2つの校歌は成田・加藤・斎藤の3人が協力して作り上げたものだったのです。
※現在、7階エントランスの展示は「障がい者週間特別展示」開催に伴い休止しています。12月15日(木)に再開しますので、ぜひご覧ください。
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